近江八幡|八幡堀や建築物が彩る水郷景観。近世城下町はこうして誕生した!

六角定頼の観音寺城下町

応仁・文明の乱後、在京していた守護大名たちは次第に京都を離れ、自らの領国へ下向するようになります。その結果、在国の拠点となった守護所を中心に町が形成され、各地に「地方都市」が生まれていきました。京都一極集中の室町時代から、地方がそれぞれに花開く戦国時代への転換点でした。

各国での戦乱を勝ち抜いていった戦国大名は防衛のために山城を築き、山上に自らの居所を置き、山麓には家臣団を集住させました。そうした結果、山麓には城下町が形成され、この城下町を中心に生活や軍事に関連する需要が生まれたことで、周辺には定期的に市場も開かれるようになります。

戦国大名たちはこれらの市場を活性化するために、楽市令を発布しました。「楽市」とは「自由な市場」という意味です。当時は、商品ごとに結成された組合「座」が、市場での商売を独占的に行っており、座以外の者が商売を行うことは禁止されていました。楽市令は、座以外の商人・職人にも商売を許可するもので、誰でも自由に商売ができるようにする政策です。戦国大名はこうした政策によって商人たちを城下町に囲い込み、戦時でも円滑に物資調達を図ろうとしたのです。

観音寺城下町|繖山から撮影
山麓に城下町が形成された。当時の区画はいまでも残っているという。

近江の戦国大名である六角定頼は、観音寺城下町の石寺に楽市令を発布しました。これは1549年(天文18)に出されたもので、日本で最初の楽市の事例です。観音寺城の位置する琵琶湖東岸は東山道に近いだけでなく、美濃や伊勢で荷揚げされた物資が鈴鹿を超えて集積されるエリアでもある陸路の要衝でした。六角定頼は、こうして集まってきた商人たちを自らの城下町に招致するため、楽市令を発布したのでしょう。

観音寺城下町
石寺の楽市が置かれたと想定される場所。写真奥の山に観音寺城が築かれた。

ちなみに、このときの楽市令はいわば「市場の自由化」だけであり、座そのものを解体したわけではありません。座は有力寺院などを本所として税を支払うことで、本所の政治力によって自らの商売を保護してもらうものですが、六角氏は囲い込んだ地元商人たちに座を結成させ、石寺ではない別の市場では営業の独占権を与えていました。商人たちの中には六角氏の被官となり、軍事面でも活躍するようになります。

織田信長の安土城下町

六角氏を滅ぼした織田信長は、観音寺城からほど近い場所に安土城を築きました。信長は、六角氏の城下町政策をさらに推し進め、家臣たちの集住を徹底し、商人たちの招致にも力をいれました。

安土城下町|繖山から撮影
写真中央の丘陵が安土山。安土山の南西地区に城下町が形成された。田畑の部分は後世の埋立地。

1577年(天正5)に安土城下町に発布された信長の楽市令では、商売の自由化はもちろんですが、税や役の免除する代わりに安土城下町に寄宿することを義務付け、市場の治安維持についても定められました。

安土城下町
安土城下町の中心地。写真奥が安土城の登城口に至る。

安土城の立地は琵琶湖の水運を利用するうえでも優れていました。信長は六角氏時代から運営されていた常楽寺の港津を自らの城下町に取り込み、琵琶湖の水運を押さえることができました。さらに、関所の廃止や道路・橋の整備も行い、流通網の拡大に力を入れました。

信長の経済政策はよく「楽市楽座」と呼ばれますが、六角氏と同様、信長も座を完全に廃止したわけではありません。安土城下町では座の特権を認めませんでしたが、安土以外では座に独占的な商売をさせ、税を徴収していました。物資の輸送においても特定の流通業者に請け負わせる代わりに役銭を徴収していました。こうした商人たちは、物流だけでなく、行軍時にも役立ったと言います。信長が上洛するときの道案内や京都での寄宿場所などは、商人たちが手配していたようです。

こうした城下町振興策により、城を中心とした、ひいては城に居住する信長を中心とした新しい都市空間の形成が進みました。これまでの城下町は政治的な中心地に過ぎませんでしたが、それに経済的な中心地も一体化していったのです。しかし、信長の政策は中世の権限を否定したものの、結局は自分の元に再編成しただけでした。本当の意味での経済の自由化は、豊臣政権の課題として引き継がれていきます。

豊臣秀次の近江八幡城下町

本能寺の変で信長が滅んだあと、安土城下町の経済は停滞しますが、1584年(天正12)、豊臣秀次が近江八幡に入ったことで再び変化が起きます。秀次が八幡山の山麓に城下町を整備するのにともない、安土城下町の商人たちはここに移転することになったのです。

近江八幡山|安土山から撮影
目の前の西の湖はかつてはもっと大きく、琵琶湖に直結していた。

八幡山の南麓には武家屋敷が建ち、堀を挟んで南側に短冊形の地割りで町人地が形成され、武士と商人の居住場所が区分されました。また、豊臣政権では、勝手に商人になった農民をもとの村に帰す「本所返し」が行われ、農民と商人の身分の分離も進みました。こうした身分分離の進んだ都市を「近世都市」と呼びます。

こうして豊臣期に形成された城下町の多くは、現在の都市の源流になりました。この近江八幡城下町も現在の近江八幡市へと引き継がれました。特にこの町では、当時を彷彿とさせる景観や建築物が残っており、それぞれ「重要文化的景観」と「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

近江八幡の水郷■重要文化的景観|八幡山から撮影
江州ヨシは陸(おか)ヨシで、人の手によって栽培された。湿地帯では瓦生産用の粘土も採取された。

八幡山の東麓では、いまでもヨシが栽培されており、「江州ヨシ」と呼ばれその品質の良さは全国的に有名です。当時もヨシが特産で、信長時代にはヨシが年貢として納められていたそうです。ヨシは、すだれ・衝立(葦簀)・屋根や天井等の建材となり、当時は需要も高い商品でした。琵琶湖の水運を利用して京都や北陸、さらに東国へと運ばれ、売買されました。

近江八幡の水郷
現在もヨシの栽培が行われ、地元の産業として生き続けている。

また、各地に出ていくだけでなく、近江八幡の城下にも琵琶湖を経由して多くの物資が運ばれてきました。そのときに利用されたのが八幡堀です。琵琶湖を経由する船はこの八幡堀を通って城下町に入ることが義務付けられていました。

八幡堀
琵琶湖を通過する船は八幡堀をとって近江八幡城下町に入っていた。

こうして活況を呈した近江八幡城下町でしたが、秀次が失脚したことでわずか10年で城が破却されます。しかし、城下町の商人たちはもはや有力な大名の庇護がなくとも、自力で経営を拡大していく力を持っていました。商人たちは大名の政策に絡め取られたり屈服したりしたわけではなく、政策にのって力を伸ばしていたのです。

八幡堀
舟から荷揚げされた場所。奥の山は城の築かれた八幡山。

また、自力で経営を拡大できる環境も整っていました。豊臣秀吉による日本の統一政権が樹立されたことで、流通網も全国規模で掌握されるようになりました。また、座が完全に廃止され、税を徴収して特定の商人を優遇する者は厳しく処罰されるようになりました。商人たちは日本全国で自由に商売が行えるようになっていたのです。

新町通り
建物は江戸末期から明治期にかけてのものだが、古い町並みが最もよく保存されている通り。
永原町通り
安土城の商人が移住して形成した町。

豊臣政権が滅んだ江戸時代では、近江八幡の商人たちは「近江商人」と呼ばれ全国で活躍するようになります。彼らが形成した近世城下町の趣はいまに引き継がれ、大切に守られています。

基本情報

  • 指定:重要文化的景観「近江八幡の水郷」・重要伝統的建造物群保存地区「近江八幡市八幡」
  • 住所:滋賀県近江八幡市大杉町外

八幡山の重要文化的景観展望台に至るためには登山装備と事前準備が必要です。安全に気を付けて登山してください。