御床松原遺跡|志摩歴史資料館で見る、弥生時代の港湾集落
北部九州に稲作が伝来したとき、すべての集落が稲作を開始したわけではありません。稲作に適した土地が少ない集落では、縄文時代からの狩猟・漁労を継続しました。特に、海辺の集落は漁労活動によって航海術を磨き、やがては海上交易に乗り出します。弥生時代が進み、稲作中心の集落が拡大して王都となっていく一方で、漁労中心の集落は国の港湾機能を担うことで海上交易の面から国の発展に貢献していたと考えられます。
北部九州にあった伊都国もそのような港湾集落によって中国や朝鮮半島と活発に交易を行い発展した国の1つ。志摩歴史資料館で、伊都国を支えた港湾集落の跡、御床松原遺跡を見ていきましょう。
御床松原遺跡
伊都国は、大陸からの玄関口であった玄界灘に面していました。旧怡土郡で巨大集落や王墓などが発見されていることから政治の中心は伊都国の南側にあったようです。旧志摩郡にあたる北側は、港湾機能の一部を担っていたと考えられています。特に遺跡の発掘からその機能が裏付けられているのが、御床松原遺跡です。
この御床松原集落は縄文時代から古墳時代まで続く集落跡で、縄文時代から活発に漁労が行われていました。集落の西側は引津湾に面しており、そこから船を出していたのでしょう。
漁労集落
御床松原遺跡では、縄文時代から古墳時代にかけて漁労具が多く出土しています。縄文時代から古墳時代へ時代を経るごとに、同じ漁労具でも素材が変わり、より効率よく漁労ができるようになっています。
石包丁などの農具も出土していることから小規模ながら稲作も行われていたようです。漁労と稲作の両方で、日々の食料を確保していたことが想定されます。
港湾集落
中国では前漢が滅んだ後、「新」という国が建国されます。この国は西暦8年~23年の短期間しか存続せず、すぐに滅ぼされてその後は後漢が成立します。この新の時代に鋳造された貨幣は「貨泉」と呼ばれ、朝鮮半島を経由して日本にも流通し、北部九州を中心に出土しています。
この貨泉は、発行された年代が特定されていてかつ発行が短期間であるため、出土した遺跡の年代を示す指標になっています。日本では弥生中期後半~弥生後期を示す資料です。この「貨泉」が御床松原遺跡で発見されました。
このことから、御床松原集落は、弥生時代後期を中心に中国と交易を行っていたことも分かり、伊都国の港湾機能を担っていたことが想定されるのです。
弥生時代の多様な集落
糸島半島の怡土郡側の付け根にある潤地頭給遺跡では遠浅・河川用の準構造船と思われる船材が発見されました。この潤地頭給遺跡では朝鮮半島系の土器なども多数出土することから、何らかの港湾施設があったと考えられています。
中国や朝鮮半島から戻ってきた大型船は御床松原集落に寄港し、そこで積荷を準構造船に移し替えた後、地頭給遺跡まで海上輸送し、そこからは陸路で内陸部の政治拠点(三雲・井原遺跡)まで運び込まれたことが示唆されます。
弥生時代と言うと稲作集落のイメージが強いですが、縄文時代からの漁労活動を継続し、その航海術を活かすことで港湾機能を担う集落もあったのです。弥生時代の多様な集落の一端を、志摩歴史資料館で発見することができます。
基本情報
- 指定:なし
- 住所:福岡県糸島市志摩御床
- 施設:志摩歴史資料館(外部サイト)