有職装束|平安時代の服装を大解説!平安貴族は何を着ていた?
遣唐使が終わり唐文化の流入が激減した平安時代中期は「国風文化」と呼ばれる日本独特の習慣や文化が芽生えていきました。特にファッションの分野でその流れが顕著で、女性ファッションでは「十二単」と呼ばれるような華やかな衣装が誕生します。
また平安時代中期は律令制が崩れはじめ、厳しいルールのあった男性ファッションにおいても堅苦しさを省いていこうとする動きが出てきました。さらに、荘園制の成長にともなって上級貴族に富が集積した結果、男性も女性も豪華な衣装が好まれるようになります。
京都市の風俗博物館と宇治市の源氏物語ミュージアムで、展示された人形を見ながら平安時代の貴族たちがどのような衣服を着ていたのか学んでいきましょう。
最もフォーマルな"束帯"の姿
平安貴族にとって最もフォーマルな装いが「束帯(そくたい)」です。宮中に出仕する際は束帯姿であることが決まりでした。その他、格式の高い儀式なども束帯で参加する必要があったようです。束帯とは特定の衣服の名称ではなく、いくつかの衣服を決められたルールで着つけた姿の総称です。「束帯スタイル」という方が分かりやすいかもしれません。まずは風俗博物館で、光源氏の息子・夕霧(ゆうぎり)の姿から束帯スタイルを見てみましょう。
下着として白小袖を着たところから束帯スタイルの着付けは始まります。まずは紅色の大口袴(おおくちばかま)を履きます。次に単(ひとえ)を着ます。単も紅色と決まっていました。
大口袴の上には表袴(うえのはかま)を履きます。表袴は表地が白色で裏地が紅色です。表地には公卿だけが文様を入れることができ、通常は無文でした。
次に、単の上から下襲(したがさね)を着ます。表地が白色で裏地が黒色です。後身頃の裾が異様に長いのが特徴で、高位の者ほど長く引くことができました。表袴と同様、位の高い者だけに文様を入れることが許されました。
下襲の上には半臂(はんぴ)という袖なしの中衣を着ますが、省略されることも多かったそうです。この上から袍(ほう)という上着を着ます。位階によって色が決まっていたので「位袍(いほう)」とも呼びます。
最期に石帯(せきたい)というベルトを締めて完成です。腰には魚袋(ぎょたい)というアクセサリーを付けました。頭には冠を装着します。冠から背中に向けて垂れているのが「纓(えい)」で、このような冠を特に「垂纓冠(すいえいのかんむり)」と言います。武官であれば刀を平緒(ひらお)という帯で吊るしました。
夕霧の人形は写真の都合でわかりにくいので、別のシーンでの貴族(光源氏の随員)の人形で図示したのが下の写真です。
平安時代中期までは紫(むらさき)・緋(あけ)・緑(みどり)・縹(はなだ)の4色にそれぞれ深(ふかき)・浅(あさき)と細かく分けられていましたが、藤原道長や紫式部の時代以降は黒(四位以上)・緋(五位)・縹(六位以下)の3色になります。
許された者だけの"冠直衣"の姿
もう一度、一番上の写真を見てください。簀子に座っている夕霧に対して、廂に座っているのが光源氏です。光源氏は白色の袍を着ていますが、これは何位の色なのでしょう?実はこれは色にルールのある位袍ではなく、好きな色を選べる「雑袍(ざっぽう)」です。直(ただ)の衣と書いて「直衣(のうし)」と呼ぶのが一般的です。
また光源氏は白色の表袴を履いていません。彼が履いているのは指貫(さしぬき)と呼ばれる袴です。指貫は裾に付いた紐を足首やふくらはぎに結びつけるため、足元が袋状になります。この袋にボリュームを出すために、指貫の下には大口袴ではなく長袴(ながばかま)を履きました。また背中側から裾も引いていないので、下襲も着ていないことが分かります。
上の写真では分かりにくいので、別のシーンでの光源氏の人形で図示したのが下の写真です。
直衣も指貫も貴族のカジュアルウェアで、本来であれば宮中での執務や公的な儀式にはこれらを着て参加できませんでした。しかし「雑袍勅許(ざっぽうちょっきょ)」という特別な許可があれば直衣と指貫で出仕することができます。光源氏はこの許しを得ていたのです。
好きな色を選べる直衣ですが、公式な場では年配者は白色の直衣を身につけていることが多いです。また、プライベートで直衣を着る場合は頭には烏帽子を被りますが、宮中に出仕する場合は冠でなければなりませんでした。このスタイルを「冠直衣」と呼びます。正しい例えか分かりませんが、「束帯」が「スーツスタイル」だとすれば、「冠直衣」は「ネクタイありのジャケパンスタイル」というイメージです。
束帯よりやや緩めの"衣袴"と"衣冠"の姿
厳格な律令国家が緩み始めた平安時代中期には、衣装の面でもなにかにつけて堅苦しさを省いていく流れが出てきます。上の雑袍勅許による冠直衣もその流れです。他にも、結婚式などの比較的軽めの儀式では「衣袴(ほうこ)」というスタイルで出席しました。これは束帯スタイルの表袴を指貫に変えたものです。
また夜間勤務で用いた「衣冠(いかん)」というスタイルでは、束帯スタイルから石帯を外し、下襲を省いて、表袴を指貫へ変えました。夜間勤務のことを「宿直(とのい)」と呼ぶので、このスタイルを「宿直装束」と呼んだりもします。束帯に比べるととてもゆったりとくつろげるスタイルでした。
貴族のカジュアルウェア"直衣"と"狩衣"
貴族のカジュアルウェアとしては、上で見た「直衣(のうし)」という袍を羽織るのが一般的です。上では「冠直衣」の姿だったので頭には冠を被っていますが、宮中に出仕しないプライベートのときは烏帽子(えぼし)を被りました。
他に「狩衣(かりぎぬ)」という上着があります。鷹狩り用のスポーツウェアとして浸透し、身動きしやすいことから徐々に普段着として広まっていきました。前身頃が2巾である袍に対して狩衣は前身頃が1巾なのが最大の特徴で、さらに袖の縫い付けが全周ではなく後身頃の一部だけだったので、袍よりも軽く腕が動かしやすいようになっています。
平安時代中期までは上級貴族は「直衣」を用い、下級貴族は「狩衣(かりぎぬ)」を着ましたが、藤原道長が狩衣を用いはじめたことで上級貴族もこぞって狩衣を着始めます。それに伴い、これまで麻布だった狩衣が絹織物など高級な仕立てになっていきました。カジュアルウェアなので色や文様は自由に選べましたが、それでも五位以上の者しか有文は許されませんでした。
下級官人や子供が着た"水干"と"布衫"
狩衣の仲間に「水干(すいかん)」があります。水で洗って干せるためにこの名前がついたというとおり、基本は麻製です。狩衣と似ていますが、水干は襟を紐で結び留めるので右の首元から紐が垂れています。また、縫い目の要所要所に菊綴(きくとじ)と言う糸飾りが付いていることが特徴です。水干は子供の衣装としても用いられました。
そのほか「布衫(ふさん)」という衣類も狩衣の派生衣装で、袖を前身頃まで縫い付けることでフォーマルさが増したため、儀式の行列などで輿を担いだり馬を曳いたりする下級官人が用いました。
平安ファッションの華"女房装束"の姿
最後に女性の装いです。女性のフォーマルウェアは「女房装束(にょうぼうしょうぞく)」と呼ばれるもので、俗に言う「十二単(じゅうにひとえ)」です。有職装束の一番の華です。ちなみに「女房装束」という名称は、この装いを貴人(天皇の后など)に仕える女官が用いたことから、彼女たちを「女房(にょうぼう)」と呼んだことにちなんで後の研究者が付けたものです。
女房装束も束帯と同様に特定の衣服のことではなく、複数の衣服を重ね着した総称のことです。フォーマルウェアですが、男性の束帯とちがって厳格なルールがなかったので、色や着こなしを自由に楽しむことができました。
着つけの流れは、白小袖を着て紅色の長袴(ながばかま)を履いたところからスタートで、まずは単(ひとえ)を着ます。その上から「衣(きぬ)」または「袿(うちぎ)」を複数枚重ねていきます。一般的には5枚なので「五衣(いつづぎぬ)」と呼ばれますが、特にルールはありません。
この枚数が10枚とか20枚とか重ね着したという逸話から「十二単」という言葉が生まれました。この重ね着は襟や裾にしか現れませんが、その色の重なりをいかに優美に魅せるかが平安時代の女性にとって重要だったのです。一枚一枚の襟がそれぞれ交互に重なり合う場合(てんで前)と、それぞれ交互にならない場合(ひとつ前)の二通りがありました。
衣の上から表着(うえのきぬ)を着、さらに唐衣(からぎぬ)を羽織って、最後に背中側に長く引く裳を付けて完成です。この着付けがスタンダードになると「五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)」と呼ばれるようになります。
ちなみに、女官である女房が唐衣を羽織ったのに対して、彼女たちの主人(天皇の后など)は少しカジュアルな「小袿(こうちぎ)」を羽織りました。これを「五衣小袿長袴(いつつぎぬこうちぎながばかま)」と呼びます。
こうして国風化の中で確立した平安時代の装いですが、鎌倉時代以降に武士の世となってからはさらに簡略化が進み、直垂(ひたたれ)などの新たな衣装が貴族たちに浸透していきます。明治時代になって洋服が流入すると、こうした古来の装束は神事など限られた場面だけでしか着られなくなっていきました。現代では、博物館の展示などでしか観ることのない平安時代の装束ですが、基本的なルールと装いの種類だけでも知っておけば、絵画や復元模型の楽しみ方が増えるのではないでしょうか。
参考文献
『詳解 有職装束の世界』角川ソフィア文庫(2020年初版)
著者:八條忠基
基本情報
- 住所:京都府京都市下京区花屋町下る、京都府宇治市宇治東内
- 施設:風俗博物館・源氏物語ミュージアム(外部リンク)