京都御所|平安宮での政務と儀式はどのように行われたのか?【Part2 紫宸殿・清涼殿 篇】
平安時代の前期から中期にかけて、政務と儀式の場は朝堂院から内裏へと移って行きました。現在の京都で内裏の様子を体感できる場所が、平安宮跡から東へ2kmのところにある京都御所です。京都御所の紫宸殿や清涼殿は、平安時代の様式を忠実に再現されています。ここで、内裏に移った政務と儀式の様子を見ていきます。
政務
前回見てきた政務には「政」と「定」の2種類があります。「政」とは、官司からの上申に対して大臣が決裁を行うもので、前回の記事で挙げた「朝政」や「官政」が含まれます。
外記政
平安時代前期頃から、「朝政」や「官政」に代わって、「外記政」と呼ばれる形態が徐々に始まっていきました。天皇が内裏から外に出なくなると、大臣たちは内裏に伺候することが多くなり、朝堂院や太政官曹司に出仕することが少なくなりました。そのため、太政官曹司に代わって、外記庁(「太政官候庁」とも呼ぶ)が政務を行う場所になっていきます。
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外記庁とは、太政官に所属する外記たちの執務室です。ここでは、決裁文書や外記日記を保存しており、決裁にあたって過去の事例を参照するのに便利な場所でした。なによりも、内裏のすぐ横にあったので、内裏に伺候する大臣たちにとってはとても都合のよい場所だったのです。大臣は外記庁に控え、各官庁の上申を聞き、決裁を与えました。このように、外記庁で行われた政務を「外記政」と呼びます。
南所申文・陣申文
「政」は「聴政」とも呼ばれるように主に口頭でのやり取りを基本としていましたが、文書中心の決裁の方法(申文)もありました。
外記政が終了したあと、大臣たちは外記庁のすぐ南にある南所という場所で食事をとりながら、弁官から文書を受け取り黙読して決裁を与えました。この「政」を特に「南所申文」と呼びます。さらに、大臣たちは内裏の中での待機場所である左近衛府の陣座でも申文を行うようになります。「陣申文」です。陣座では、待機していた大臣たちに酒なども振る舞われたようです。
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陣定
陣座では「政」の他に「定」も行われました。「定」とは、議政官が集まって重要案件について話し合うもので、話し合いの内容は書き留められて天皇に報告されました。これを「陣定」と言います。
参加者は参議以上の議政官。そのうちの一人が進行役(上卿)になります。上卿は案件に関する文章を参加者に回し、身分の低い順から意見を述べさせていきます。参議が意見を書きとめて、まとめた文書は蔵人頭を通して天皇に奏上されました。
陣定は800年代後半頃から始まり、摂関期に常態化しました。天皇抜きの会議体とも言える陣定は、あいつぐ幼帝の即位によって誕生した政務の形態だと考えられています。奈良時代から平安時代前期にかけて律令制下における行政文書や政務日記が大量に蓄積されてきたことで、天皇が幼く直接見ることができなくても、政務が回るようになっていたということでしょう。
儀式
朝堂院大極殿に出御しなくなった天皇は、内裏の紫宸殿で大臣からの奏上を受けました。紫宸殿は内裏の正殿です。内裏の南側、表玄関とも言える建春門と承明門をくぐった正面にあります。朝堂院の朝庭で行われていた儀式は紫宸殿の南庭で行われるようになりました。
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内裏全体を築地塀が囲む。
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紫宸殿南庭を回廊が囲む。左手の門が承明門。
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しかし、天皇はやがて紫宸殿にも出御しなくなり、日常生活を送る場であった清涼殿に留まるようになってしまいます。天皇は清涼殿で政務も行い、日常生活も送りました。陣定の内容などはこの清涼殿で奏上されたのです。
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このように、天皇が日常生活の場を政務の空間としはじめた背景には、蔵人の組織の拡大や昇殿制の確立などがありました。これら蔵人を始めとする殿上人は日常的に天皇のプライベート空間に伺候する者たちであり、政務の面でも彼らに負うところが大きくなってきたのでした。
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清涼殿殿上間近くに置かれていたとされる。
こうして、紫宸殿南庭で行われていた儀式も、清涼殿の東庭で行われるようになりました。例えば、朝堂院で行われていた元日朝賀は「小朝拝」と呼ばれる形式に縮小され、清涼殿で行われました。出席者は公卿・殿上人・蔵人ら60人程度にしぼられました。内容も、公卿たちが天皇御前で拝舞するだけになります。
こうして、律令制下での伝統的な政務や儀式のあり方は縮小・衰退・消滅していきました。それに伴って朝堂院は廃屋となるとともに、内裏も宮の外へと移っていきます。移り先の1つである里内裏・土御門東洞院殿は平安時代後期から利用されはじめ、鎌倉時代末期に光厳天皇がここで即位したことで正式に皇居となりました。以来、首都が東京に移るまで代々の天皇が居所とした場所が、いまの京都御所です。
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基本情報
- 指定:なし
- 住所:京都府京都市上京区京都御苑
- 施設:京都御所(外部サイト)