行燈山古墳|実在した最初の天皇、崇神天皇とは【天皇陵の畔で Part1】
古事記や日本書紀には歴代天皇の事績や御陵の位置について記載されています。その内容については多くの議論がなされており、いまだ定説とされていることは多くありません。しかし、その中でも第10代崇神天皇、11代垂仁天皇、12代景行天皇については、その存在を認める意見が多いとともに、御陵に比定されている古墳についてもあまり疑問が出ていません。これら3代の天皇陵を眺めながら、主に日本書紀に記載された事績を辿っていきます。
行燈山古墳
柳本古墳群に含まれる行燈山古墳は、全長は242mで全国で16番目の大きさ。後円部の径は158m、前方部の最大幅は100m。周堤まで入れると全長は375mに及びます。山裾に築かれていることから分かるとおり、皿地に土盛りしたのではなく、自然丘陵を利用して墳形を造成していています。周堤については、江戸時代の修陵工事によってかなり手が加わっているようで、古墳時代の築造当時はこれほど立派な壕ではなかったと考えられています。とはいえ、水面に浮かぶ巨大な墳丘は大王墓に相応しい佇まい。鬱蒼とした樹林と相まって、1000年以上に渡って人の手が及ばなかった神秘性を感じさせます。
崇神天皇
行燈山古墳の築造年代は、古墳時代前期前半(4世紀前半)と推定されています。この古墳に眠るとされる崇神天皇は、3世紀後半から4世紀前半までの間にヤマト政権の盟主(大王)だったと考えられています。日本書紀には、ミマキイリビコイニエの名称で記載されています。聡明で、是非善悪が分かり、大きなはかりごとを好んだと言います。近親から迎えた皇后のほかに、紀国と尾張国から后を娶っていることから、当時のヤマト王権の支配領域が畿内だけでなく東海方面にも及んでいたことが分かります。
疫病と内乱
即位後の数年は多難でした。5年目に疫病が流行し、多くの人民が病死したり流亡したと言います。その様子を嘆いた崇神天皇は、天神地祇をお祭りして疫病の鎮静を祈ったようです。このとき、大物主神の神託によって三輪山に大物主神を祀ったことで疫病は治まったと言います。
災難の1つが去ったのもつかの間、今度は身内から謀反が起こります。叔父であるタケハニヤスヒコ命が反逆を企て、北と南西の2方面から宮都を挟撃してきたのです。崇神天皇は、南西の逢坂にイサセリビコ命を、北方の奈良山にオオヒコ命をそれぞれ派遣して鎮圧させました。オオヒコ命は、崇神天皇の義父にあたり、さらに反乱の首謀者であるタケハニヤスヒコ命とは異母兄弟の関係にあります。奈良山で対峙したオオヒコ命とタケハニヤスヒコ命は単身決闘を行い、オオヒコ命が勝利しました。崇神天皇が皇位についた頃には、このように大王家内部での争いがあり、王権が確固として定まっていませんでした。
四道将軍
後顧の憂いを断った崇神天皇は、北陸、東海、西道、丹波の四道に将軍を派遣し、各地の平定に乗り出します。一方で、ため池を造って農業を振興するとともに戸口調査を行って調役を課付して内政にも力を入れました。
ハツクニシラス天皇
このような事績を讃え、日本書紀と古事記では、「初めて国を治めた天皇」という意味の「ハツクニシラス天皇」という称号で呼ばれています。崇神天皇が「実在した最初の天皇」と言われるゆえんです。しかし、ここで言う「国」とは日本列島全域のことではなく、大和を中心とした畿内とその周辺までだったと考えられています。
晩年、皇后が産んだ弟のイクメ尊と妃が産んだ兄のトヨキ命、どちらに皇位を継がせるか迷った崇神天皇は、皇子2人に夢占いをさせます。その結果、奈良山の山頂で東に向かって槍を突き刺す夢をみたという兄を東国の支配に向かわせ、三輪山の四方を縄で囲って栗を食べる雀を追い払う夢をみたという弟を皇太子としました。こうして、崇神天皇の没後、イクメ尊が皇位を継ぎました。第11代垂仁天皇です。
基本情報
- 指定:陵墓「山邊道勾岡上陵」
- 住所:奈良県天理市柳本町