土井ヶ浜遺跡|人類学ミュージアムで見る、弥生人の形成過程と二重構造モデル

二重構造モデルとはなにか

アフリカで誕生した新人はユーラシア大陸を東方に向かい、約4万年前頃に日本列島へ上陸しました。当時は氷河期の中でも氷期(特に寒い期間)にあたり、大陸と列島は一部が陸続きになっていたと想定されており、ナウマンゾウ(南方ルート)やマンモス(北方ルート)とともに人類も渡ってきたようです。これが日本の旧石器人になっていきます。

日本における旧石器人の形成過程
南方ルートについては、南西諸島経由と朝鮮半島経由等の諸説あり。

その後1万5千年前頃から徐々に温暖化が始まり、間氷期(あまり寒くない時期)に入って縄文時代が開始します。日本の旧石器人は、大陸から切り離された孤島の中で新しい気候に適応しながら、大陸とは異なる集団を形成していきました。これが縄文人です。

そして、約3000~2500年前に大陸から水稲耕作の技術が伝わり、弥生時代が始まります。このとき、水稲耕作の技術とともに大量の朝鮮半島人が日本列島に渡来しました。九州に上陸した半島人は、もともと住んでいた縄文人と混血を行っていきます。やがて、半島人の血は稲作文化とともに日本列島を北上していき、東北地方にまで達しました。これら、縄文人と半島人の血を併せ持つ新たな集団が弥生人です。

弥生人の形成過程
朝鮮半島人が九州に上陸し、縄文人と混血しながら東北地方まで北上したと想定される。

本州・四国・九州ではこの弥生人が現代日本人に繋がっていきました。このように、旧石器時代に列島に上陸した人類を基層集団とし、弥生時代に渡来した朝鮮半島人との混血によって新たな集団が形成されたとする考えを「二重構造モデル」と言います。

二重構造モデルの単純図式
縄文人が基層となり、弥生時代に朝鮮半島から渡来した人々と混血し、古墳時代以降の日本人を形成したとする考え。ただし、このモデルでは主に本州・四国・九州での形成過程しか説明できていない点に注意が必要。

土井ヶ浜遺跡の人骨

この「二重構造モデル」を構想するきっかけとなるのが土井ヶ浜遺跡です。この遺跡では弥生時代前期から中期にかけての人骨が約300体も発見されました。これらの人骨は主に「のっぺりした顔」をしており、「彫りの深い」縄文人とは異なる特徴をしていました。

弥生人(山口県・土井ヶ浜遺跡)|人類学ミュージアム(レプリカ)
縄文人(岡山県・津雲貝塚)|人類学ミュージアム(レプリカ)

この土井ヶ浜の人骨によく似た特徴を持つのが朝鮮半島人です。そのため、稲作文化とともに渡来した朝鮮半島人が縄文人と混血しながら新たな集団を形成したという「混血説」と、縄文人は絶滅し朝鮮半島人が弥生人になったという「置換説」が並び立つようになります。

人骨の形態だけではなく、埋葬された状況も見ていきましょう。例えば埋葬形態について、土井ヶ浜では土壙墓、配石墓、石囲墓、石棺墓など多様な形態の墓が見られました。石棺墓は朝鮮半島由来の形態ですが、配石墓は縄文時代から見られる形態です。しかし、墓の形態と人骨の特徴との間には特に相関はありませんでした。

石棺墓|人類学ミュージアム(レプリカ)
配石墓|人類学ミュージアム(レプリカ)

人骨の多くは北西側を向くように頭を少し起こして埋葬されていました。遺跡の北西すぐのところには東シナ海が広がっており、海を眺められるように埋葬されたらしく、なんらかの墓制を彷彿とさせます。眺めていたのは、漠然と海の方ではなく、海の向こうにある故郷・朝鮮半島だったのではないか、とも言われています。

北西方向を向く人骨|人類学ミュージアム

埋葬方法には、2体以上を埋葬する「合葬」、遺体を追加する「追葬」、白骨化した後に骨の一部を集める「集骨」など、様々な方法が見られました。しかし、これらの墓形態や埋葬方法の違いがどういった文化や思想にもとづいているのかは謎のままです。

六体が合葬された石棺墓|人類学ミュージアム(レプリカ)
頭部の集骨|人類学ミュージアム

人骨の中には、沖縄諸島でしか採れないゴホウラ貝製の腕輪を身に着けた者がいました。この貝腕輪がどういったルートで土井ヶ浜まで来たのかは分かりませんが、弥生時代前期にはすでに広域のネットワークがあったことが想定されます。

ゴホウラ貝製腕輪|人類学ミュージアム

この腕輪を身に着けた人骨のうち1体(124号)は土井ヶ浜人骨で唯一、傷痕がありました。124号は、鏃や刀のようなもので複数箇所を損傷され、さらに打撃により頭を破壊されたようで、それが原因で死亡したと見られています。

124号人骨|人類学ミュージアム(レプリカ)

熟年の男性と見られるこの人骨は「英雄」とも呼ばれ、集落を守るために戦で亡くなった人物として扱われています。しかし、傷を負った人骨が124号以外にないことから、集団戦ではなく別の事件で亡くなったとする考えが優勢です。ゴホウラ貝の腕輪を付けていることから、彼が集落の中で特殊な役割(例えば、シャーマンなど)を担っていたことも傷の要因と関係するのかもしれません。

人骨研究の最前線

これまで人骨の研究は、主に骨の形態を分析する手法が用いられており、「混血説」と「置換説」のどちらが正しいのか決定的な証拠を見つけきれませんでした。しかし、近年では骨から採取されたDNAを解析する手法が加わり、より詳細に弥生人の形成過程を追跡できるようになったのです。

土井ヶ浜遺跡においても、人骨一体分ではありますが2024年に全ゲノム解析が行われました。その研究によると、土井ヶ浜人のゲノムには、東アジア系・北東アジア系・縄文人系の3種類の成分が含まれていたことが分かりました。別の研究で、朝鮮半島人は縄文人系の成分は持っていないことが分かっていたので、土井ヶ浜人が縄文人と朝鮮半島人の混血であることが判明したのです。「置換説」ではなく、「混血説」が正しかったのです。

この3種類のゲノム成分の構成は、現代の本州の人々にも引き継がれていることから、土井ヶ浜のような人々が本州・四国・九州に広がって弥生人集団を形成し、そのまま古墳時代に移行していったことも分かってきました。

このように「二重構造モデル」は人骨の形態からだけでなく、DNAの面からも立証されつつありますが、このモデルだけで現代日本人のすべてを説明できるわけではありません。北海道や沖縄諸島では半島人の血が及ばなかったため、このモデルでは説明できない独自の過程を経て現代に繋がっています。また、古墳時代にも一定の渡来人が来て混血が行われたことが想定されていますが(三重構造モデル)、古墳時代の解明はまだほとんど進んでいません。

縄文時代や弥生時代でさえ、わずかな遺跡から出土した一部の人骨しか解析が行われていませんが、古墳時代ともなるとどの遺跡(古墳)のどの人骨を解析対象とするかがさらに大きな問題になります。身分差や地域差がより明確になった古墳時代では、どの人骨が日本列島を代表するものとなるか、選定が難しいからです。

世界的に見ても、この分野では最新の研究によってどんどん定説が覆されています。だからこそ面白い分野でもあり、目が離せません。われわれ日本人がどのように成立したのか、時代や地域ごとの違いも含めて解明されるのを楽しみにしたいと思います。

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