福井洞窟|旧石器時代の居住地跡。縄文時代へ移り変わる生活形態とは?
福井洞窟はどうして形成された?
長崎県佐世保市に「福井洞窟」と言う特別史跡があります。旧石器時代の居住地跡として最も有名な岩陰遺跡です。この洞窟の成り立ちには、遺跡の近くを流れる福井川が影響していました。

現在、洞窟の中には福井稲荷神社の本殿が鎮座している。
この辺りの地質を産総研の「地質図Navi」で見てみましょう。すると、福井洞窟の周辺は黄色に塗られており、「砂岩」で出来ていることが分かります。砂岩は文字通り砂が堆積したもので、脆く崩れやすい岩石です。

黄色や橙色は砂岩を、紫色は玄武岩を表す。
雨水はこの砂岩地形を侵食し、川を形成していきました。これが福井川です。福井川の流水は、蛇行のたびに岸壁に当たり、やがて巨大な穴を形成したことでしょう。これが洞窟になっていきました。

砂岩が水の流れに削られやすい。以前は岸壁のえぐられた高さまで水位があった。奥に見える鳥居は福井稲荷神社のもの。
とはいえ、洞窟が出来ただけで人々が住めるわけではありません。入口の前面には川が流れていて、出入りに不便だからです。しかし、福井川の場合は、下流側で流路が変わったため、この辺りの景観が一変しました。この川はもともと西向きに流れ江迎川につながっていましたが、山体崩壊(土砂崩れ)によってせき止められたことで流路が変わりました。南に向かい、佐々川と合流するようになったのです。

より標高の低いところに流れるようになった福井川では、上流側の下刻作用(河床を深く削る力)が強まり、川の水面はどんどん下がっていきました。その結果、洞窟の前に平地部分が現れ、人々は洞窟を利用できるようになったのです。

右奥に見える鳥居は福井稲荷神社のもの。現在はここまで河床が下がった。
福井洞窟の地層と出土物
福井洞窟がどのように利用されたのか、出土物や遺構を見ていきましょう。まず、改めて福井洞窟の様子を見ると、稲荷神社本殿のある空間はとても狭く、人が住めたとは思えません。しかし、今から19,000年前の人々が福井洞窟を利用しはじめたとき、穴はもっと大きく、奥行きもありました。長きに渡り様々な要因によって土砂が堆積・流入し、現在のような姿になってしまったのです。

この土砂の高まりは全部で16層から成り立っています。すごく大雑把にいうと、上から
- ①縄文時代(1層)
- ②旧石器時代から縄文時代への過渡期(2~3層)
- ③後期旧石器時代の後半期末期(4~9層)
- ④地すべり(10~11層)
- ⑤後期旧石器時代の後半期後葉(12~13層)
- ⑥居住地として利用される前(14~16層)
に区分されます。
古い時代(下の層)から行きましょう。⑥は19,000年前より以前の地層で、洞窟の真下に川が流れ、人々が洞窟をあまり利用できなかった時代です。
それが、19,000年前〜17,700年前の地層である⑤では、洞窟が本格的に利用され始めた痕跡が残っています。その1つが炉の跡です。人々はここで火を焚き、捕獲した動物の肉を焼いて食べていたようです。

この層から出土する石器は細石刃(さいせきじん)です。細石刃は後期旧石器時代の後半期に登場する最新型の石器。互いに接合する石片も見つかっていることから、洞窟内で石器を製作していたと見られます。炉や石器製作の痕跡から、人々が洞窟を居住地として利用し始めたことが推測できます。


続く④では、17,700年前に起こった山体崩壊(地すべり)によって洞窟の一部が崩れ、落石や土砂が内部に流入しました。人々は一時的に洞窟を利用できなくなりました。しかし、17,700年前から16,000年前の③の層では引き続き細石刃が出土しており、再び人々の利用が始まったことが分かります。
そして16,000年前〜14,000年前の②では細石刃とともに、なんと土器の破片が出土しました。これまで細石刃は旧石器時代の石器と考えられており、縄文時代の開始を象徴する土器と一緒に出土することはありませんでした。しかし、細石刃と土器が同じ地層から現れたことで、旧石器時代から縄文時代への過渡期の様子が分かるようになったのです。

福井洞窟に残された縄文時代の始まり
このように福井洞窟は19,000年前くらいから居住地として利用されていたことが分かりました。しかし、洞窟が利用されはじめた当初から、ここが定住的な場所として利用されていたわけではありません。旧石器時代の人々は遊動生活を営んでいたことで知られ、年間を通して同じ場所に定住する習慣はまだありませんでした。福井洞窟も、特定の季節のみ一時的に寝泊まりする場所として利用されたようです。
しかし、この状況は土器が出現して以降に変わりました。福井洞窟で出土した土器は14,000年前のものだとされており、九州では最古、日本列島全体でも最古級に当たります。日本列島は16,000年前頃から徐々に温暖化が始まっていったようで、その気候変動にともない列島の植物相は変化していきました。人々は新しい植物環境に合わせて、それを食料とするため土器を製作するようになったと見られています。
土器は重く壊れやすいため、持ち運ぶのに適していません。そのため、土器が利用されるようになったということは、人々が遊動生活をやめて定住生活に切り替えた指標だとも見られています。福井洞窟が定住生活の場所として利用されるようになったのは②の層からなのでしょう。しかし、細石刃も合わせて出土することから、旧石器時代的な道具も使われ続けました。
細石刃は主に槍に装着される石器です。福井洞窟では10,000年前の①になると細石刃は姿を消し、変わって石鏃が出土するようになります。石鏃は弓矢に装着される石器です。槍から弓へ、狩猟の道具を変わっていったのです。

定住生活や弓矢利用は縄文時代を象徴する生活様式です。人々はやがて洞窟を出て、竪穴住居という新たな住居を産み出し、本格的な縄文時代を開始させます。福井洞窟は、旧石器時代的な生活から縄文時代的な生活へと移行する過渡期に利用された居住地だったのです。
基本情報
- 指定:特別史跡「福井洞窟」
- 住所:長崎県佐世保市吉井町福井
- 施設:福井洞窟ミュージアム(外部サイト)