法金剛院|平安時代を代表する浄土庭園。"待賢門院"藤原璋子の真の姿とは?

"治天の君"白河法皇と"待賢門院"藤原璋子
1073年、藤原頼通(藤原道長の嫡男)が没し、続いて1074年には彰子(道長の長女)、1075年に教通(道長の次男)が相次いで亡くなったことで、御堂流藤原道長のときに絶頂を迎えた平安時代摂関期が終わりを告げました。次に始まるのは、平安時代の院政期です。
この摂関期から院政期への変わり目、1073年に即位したのが白河天皇です。白河天皇の母親は閑院流藤原氏の茂子(もし)でした。白河の次代堀河天皇には、同じく閑院流実季(さねすえ)の娘・苡子(いし)が入内し、宗仁親王(のちの鳥羽天皇)を産みます。さらに、この鳥羽天皇には、閑院流公実(きんざね)の娘・璋子(しょうし)が入り、顕仁親王(のちの崇徳天皇)と雅仁親王(のちの後白河天皇)を産むことになります。これまで天皇の外祖父の地位をほしいままにしていた御堂流に代わり、閑院流がその地位につくようになったのです。

1107年、父親の公実が亡くなり後ろ盾を失った7歳の璋子を引き取ったのは、当時"治天の君"として朝廷に君臨していた白河法皇でした。璋子は法皇の養子として育てられ、やがて当代随一の美女へと成長します。1115年頃、法皇はわが子同然に可愛がってきた璋子を、御堂流の忠通と結婚させようと、父・忠実に話を持ち掛けます。
しかし忠実は、美人の一方でなにかと浮き名の流れていた璋子の素行が気になり、法皇による縁組にも関わらず断ってしまいます。忠実の態度に激怒した白河法皇ですが、気を取り直して、璋子を孫の鳥羽天皇のもとに入内させることにします(1118年)。その結果、璋子と鳥羽天皇との間には顕仁親王と雅仁親王の2天皇が産まれました。
璋子の浮き名として忠実も気にしたであろう最も有名な話は、育ての親である白河法皇との男女関係にまつわるもので、当時から「鳥羽天皇の皇子である顕仁親王は実は白河の胤ではないか」という噂がありました。この噂を裏付けるかのように、白河法皇は顕仁を溺愛し、鳥羽天皇を無理やり譲位させて顕仁を即位(崇徳天皇)させたのです。
そのせいか、鳥羽上皇は白河法皇と仲が悪く、璋子や崇徳天皇への愛情も失っていき、白河の没後(1129年)には、もう一人の后・藤原得子(美福門院)を寵愛するようになります。二人の間には躰仁親王(なりひと)が産まれたため、鳥羽上皇は躰仁親王を即位させ(近衛天皇)、白河亡き後の"治天の君"として君臨することになるのです。
しかし、近衛天皇は実子ができないまま没したため(1155年)、図らずも次に即位したのが、璋子のもう一人の子・雅仁親王(後白河天皇)だったのです。
"待賢門院"璋子による法金剛院の再興
"治天の君"白河法皇という絶大な後ろ盾があった藤原璋子の元には多くの富が集まりました。彼女には「待賢門院(たいけんもんいん)」という院号が賜与されましたが、これは単なる尊称ではなく、彼女が独自の経済基盤を持つことを意味します。

法金剛院境内の枝垂れ桜。再興した璋子にちなんで名づけられた。
待賢門院はこの富を使い、白河法皇の法勝寺(ほっしょうじ)に倣って円勝寺(えんしょうじ)を創建します(1128年)。この寺院は世に言う「六勝寺」の1つに数えられました。さらに1130年、右京花園にあって衰亡していた天安寺を法金剛院に改め、大規模な庭園付きの寺院に改修しました。現在の法金剛院の庭園は発掘の成果をもとにこのときの姿に復元されたものです。

池泉の東側には待賢門院の寝殿があった。
この庭園は、池泉の西側に阿弥陀堂(当時は「西御堂」と呼ばれた)をもつ典型的な浄土庭園です。本尊である当時の阿弥陀如来像(国宝)は礼堂裏手の仏殿に安置されており、拝観することができます。

池泉の西側には阿弥陀堂(西御堂)があったとされる。本尊の阿弥陀如来像は
池泉の南側には、当時流行していた九体阿弥陀堂(当時は「南御堂」と呼ばれた)があったそうですが、堂宇・仏像ともに失われてしまいました。池泉の水際では、玉石による州浜が復元されていますが、これは池泉を大海に見立てるもので、平安時代の庭園を特徴づける技法の1つです。

玉石による州浜は平安時代の庭園の特徴の1つ。奥に2つの中島が浮かぶ。
池泉の北には、青女の滝(せいじょのたき)と呼ばれる滝石組がありました。史上最初の人工滝と言われます。訪問したときには水が枯れていましたが、枯山水ではなく、流れ落ちた水は池に注がれるように遣水が設計されています。

拝観時は枯れていたが、五位山からの水が流れる。
待賢門院はこの滝石組の製作には特に力を入れたようで、平安時代を代表する作庭家・林賢(りんけん)が組んだ石組を、さらに高くするよう、これまた名作庭家の静意(じょうい)に依頼するほどのこだわりようでした。

滝から池泉に注ぐ。
待賢門院は1142年に出家し、池泉の東にあった寝殿に入りました。寝殿からは池の向こうに阿弥陀堂を遥拝することができ、養父・白河法皇の冥福を静かに祈ったことでしょう。1145年、静かに息をひきとった待賢門院は、庭園の北側に位置する五位山(ごいやま)の御陵に埋葬されました。

庭園北側に位置する。青女の滝とともに特別名勝に指定されている。
"待賢門院"璋子にまつわる噂話の真実とは?
とかく浮き名の流れた待賢門院ですが、近年には「当時の噂はすべて事実ではなかった」とする説も出てきています。
せっかくの縁談を御堂流忠実によって破談にされた理由も、忠実がライバルとなりえた閑院流の娘を毛嫌いしただけと言われます。白河法皇の御所に出入りしたのも、白河法皇と鳥羽天皇とのパイプ役を務めていたためで、男女の関係はなかったとする説もあります。
では、鳥羽上皇はなぜ待賢門院や崇徳天皇を遠ざけるようになったのでしょうか。それは、祖父白河法皇の定めた規定路線に抗い、自分の意思で皇統を定めたかったからです。院政とは、要は「上皇が後継者を決めること」です。長寿を全うした白河法皇は、堀河→鳥羽→崇徳と3代にも渡って自らの意思で後継者を定め、そのために治天の君として政治力を発揮できたのです。鳥羽上皇は祖父の定めた路線を覆し、自分の意思で近衛天皇の次の後継者を定め、確固とした院政を行いたかったのでしょう。
しかし、近衛天皇が男子に恵まれなかったため、鳥羽上皇と美福門院は雅仁親王の子・守仁親王を養子としました。近衛天皇の次の天皇にしようと目論んでいましたが、近衛の没後(1155年)、やはり親を飛び越えて守仁親王を即位させることは憚られ、中継ぎとして雅仁親王が即位することになります(後白河天皇)。そして、1156年に鳥羽上皇が没した直後、後白河天皇と崇徳上皇の兄弟が相争う「保元の乱」が勃発してしまうのです。崇徳上皇が白河法皇の子とする噂こそは、この保元の乱において後白河陣営にあった御堂流忠通が、崇徳陣営を陥れるために流したデマだったとも言われています。
まことしやかに語られる待賢門院にまつわる噂話も、所詮は事実無根だったのかもしれません。実際、鳥羽上皇は、待賢門院が没したときに声をあげて泣いたと言われるほど、彼女を深く愛していました。後半生を寺院の建立に費やし、仏門に入った待賢門院は、法金剛院の浄土庭園で、自らも極楽浄土へ往生できるよう祈ったことでしょう。その御利益があったから、自分の息子2人による悲しい争いを見ることなく、この世を去ることができたのかもしれません。
基本情報
- 住所:京都府京都市右京区花園扇野町
- 施設:法金剛院(外部サイト)

