石塚山古墳|ヤマト王権による九州制圧。その中心人物・菟名手とは?

第10代天皇の崇神ののち、垂仁と続き、景行天皇の時代、ヤマト王権は支配領域を大きく拡大させます。それまでは、大和を中心に近畿地方に勢力を張りつつ、北は丹波・丹後(京都府北部~兵庫県北部)、東は美濃(岐阜県)、西は吉備(岡山県)を征服したばかりという状況でしたが、第12代の景行天皇の時代に、ヤマト王権はとうとう九州にまで支配の手を伸ばします。その最初の足がかりになったのが、福岡県東部・豊国(とよのくに)でした。

ヤマト王権の九州制圧

ヤマト王権による九州侵攻には景行けいこう天皇自らが出征しました。この軍事行動の様子は、日本書紀に詳しく書かれています。

8月15日、景行天皇は大和を出陣、瀬戸内海を西に進行した。9月5日、周防すおう佐波さば(山口県防府ぼうふ市)に到着した景行は、九州の陸方に煙が立ち上っているのを見て「必ず賊がいるだろう」と、菟名手うなて武諸木たけもろき夏花なつはなの3人を敵情視察に送った。そこに、神夏磯媛かむなつそひめという女が白旗を船の舳先にかけて3人のもとにやってきた。この女は多くの衆徒を抱える一国の女王。彼女は景行大王への恭順の意を示し、豊国の敵情について詳しく聞かせてくれた。「鼻垂はなたりという豪族が大王を名乗って、菟狭うさ(大分県宇佐市)南域の山間部に蟠踞しております。その他、耳垂みみたり麻剥あさはぎ土折猪折つちおりいおりがそれぞれ御木みけ(福岡県豊前ぶぜん市)、高羽たかは(福岡県田川たがわ市)、緑野みどりの(福岡県北九州市)の要害の地に勢力を張り、しばしば集落まで下りてきては民衆を拐っていきます。」そこで、菟名手らは作戦を練り、偽りの宴で賊4人を招き入れて謀殺。豊国が平定されたのち、景行天皇は長峡県ながおのあがた(福岡県行橋ゆくはし市)に行幸し、ここに行宮かりみやを立てた。

この行宮を立てた地は「京都(みやこ)」という地名で呼ばれるようになりました。この京都郡の苅田町(かんだ)に、巨大な前方後円墳が残されています。

京都郡に残る石塚山古墳

瀬戸内海の西端、山口県(周防国)・福岡県(豊前国)・大分県(豊後国)に3方を囲まれた海域を周防灘すおうなだと呼びます。この周防灘に前方部を向けた前方後円墳が石塚山古墳です。

石塚山古墳の位置|国土地理院(跡ナビ編纂室編集)

後円部3段、前方部2段の築成、墳丘全面に葺石があり、主体部は竪穴式石室。典型的な古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳です。九州の前期古墳の中では最大規模の全長130m。

後円部(一部が削平されている)
前方部
浮殿神社が建立されている。
後円部
最近盗掘を受けたため立入禁止になっている。

三角縁神獣鏡

石塚山古墳からは7枚の三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうが出土しました。重要文化財に指定された現物は宇原うはら神社に保管されており、平常時は見ることができません。うち6枚で同笵鏡どうはんきょうが知らています。同笵鏡とは、同じ鋳型で造られた兄弟関係の鏡のこと。6枚のうち2枚が同笵関係のため、計5種の同笵鏡が出土しました。

参考情報

宇原神社・三角縁神獣鏡(外部サイト)

同笵鏡の分布を1枚ずつ示した地図を見てみてください。

石塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡の多くは、椿井大塚山つばいおおつかやま古墳や黒塚くろつか古墳と同笵関係にあることが分かります。椿井大塚山古墳や黒塚古墳は三角縁神獣鏡が大量に出土したことから、その被葬者は「鏡の配布元」とも言われています。鏡の同笵関係だけで断定はできませんが、石塚山古墳と近畿中央部の古墳とは強い関係性があったように見えます。石塚山古墳の被葬者はヤマト王権と深い関わりのある人物なのでしょうか。

小札革綴冑

中国からの舶載品である小札革綴冑こざねかわとじかぶとの小札片が多数出土しました。出土例は黒塚古墳や雪野山ゆきのやま古墳など少なく、貴重な舶載物の1つです。出土片の現物は苅田かんだ町歴史資料館に展示されています。貴重な舶載武具が副葬されていたということは、被葬者は武人、それも位の高い人物だったことが示唆されます。

菟名手なる人物

石塚山古墳の被葬者はどのような人物なのか。

  • 説1:この地在来の豪族で、早くからヤマト王権に服属し、王権内でも重く用いられた人物
  • 説2:ヤマト王権に仕える武人で、この地の統治を命じられ赴任してきた人物

どちらの説もありえそうです。そこで、豊後国風土記を見てみましょう。

昔、景行けいこう天皇が、菟名手うなて豊国とよのくにを治めるよう命じた。菟名手は豊前ぶぜん国に赴任し、中津なかつ中臣なかとみ村で宿泊した。明くる日の夜明け前、白い鳥が村に集まってきた。その鳥を調べたところ、鳥は餅に姿を変え、さらに里芋数千株に変わったという。その里芋の花と葉は冬でも栄えた。菟名手はこれを瑞兆として喜び、景行天皇に報告した。天皇も喜び、「これは地上豊かに実る象徴である。お前の治める国は豊国と名付けるがよい」と言った。菟名手はあたいかばねを賜り、豊国直とよのくにのあたいと言うようになった。

この菟名手、どこかで見覚えがないでしょうか。そう、上で見た日本書紀の記述です。菟名手は、景行天皇の九州征討に付き従った武人の一人でした。先陣を切った勇将でもあります。菟名手なら、近畿地方の三角縁神獣鏡や舶載の小札革綴冑も持っていそうではありませんか。

豊国(とよのくに)を平定した景行天皇は、その後日向(ひむか)に侵攻。続いて火国(ひのくに)を制圧し、九州中南部を支配下に治めます。その後、景行天皇はいったん大和に引き上げますが、その際、菟名手を豊国に残し、その地を治めるよう命じたのかもしれません。

景行、成務の後、第14代仲哀天皇は神功皇后とともに最後の九州遠征に乗り出し、北部を含めた全九州域を支配下に組み込んだようです。この一連の九州征討の中で、豊前地域は橋頭堡の役割を担ったことでしょう。古墳時代前期を代表する石塚山古墳はそのことを象徴する大型前方後円墳です。

基本情報

  • 指定:国指定「石塚山古墳」
  • 住所:福岡県京都郡苅田町富久町
  • 施設:苅田町歴史資料館(外部サイト)