亀塚古墳|"豊後国・大分"最大の前方後円墳。応神天皇が定めた海人部の古墳か?
応神天皇による海人部設置
日本書紀には、応神天皇によって各地に海人部(あまべ)が設置された、と書かれています。海人部の「部」とは、ヤマト王権が各地の豪族を通して間接的に支配した民衆、及びその地域のことを言います。海人(海洋民)である彼らは、船の水手として王権に出仕したり、海産物を貢納したことが記されています。
一般的に「部」は部民制によって6世紀頃に設置されたものだと考えられており、応神天皇の治世とされる4世紀終わりから5世紀初めとは時期が異なります。「海人部」とは呼ばれていなかったでしょうが、応神天皇の代に天皇に仕える海洋民の集団が各地に誕生したのは事実だと考えられています。
豊後国の海人部
日本書紀では海人部の事例として淡路島の集団が取り上げられており、応神天皇や仁徳天皇の要請に応じて船を出したようです。海人部は、主に瀬戸内海沿岸に設置されたと想定されており、ヤマト王権が朝鮮半島に進出するために航路と船・水夫を確保する狙いがあったと言われています。
瀬戸内海の西端・豊後国の風土記(奈良時代の編纂)にも「海部(あま)の郡」の条があり、この郡の人民はみな海人である、と記され、近年(2005年)まで「北海部郡」「南海部郡」の郡名として痕跡を留めていました。この地には、応神天皇と同じ時期に築造されたとされる豊後国最大の古墳がいまも残っており、王権の支配下に入った海洋民の集団が古墳時代に存在していたことを彷彿とさせます。
海人部の亀塚古墳
海部郡に築かれた豊後最大の古墳・亀塚古墳は全長116mの前方後円墳。表面に葺石のある3段築成の古墳です。豊後水道(瀬戸内海の西端)に面する丘陵の頂部に築かれました。
各段には円筒埴輪が並べられ、さらに造出を持ち、家形や船形の埴輪が配置されていたようです。
後円部には2つの埋葬部がありました。
大きい埋葬部(第1主体部)からは箱式の石棺が出土し、中には滑石製勾玉・臼玉、碧玉製勾玉、ガラス製小玉のほか、鉄甲・鉄刀・鉄鏃などの鉄製品が副葬されていました。小さい埋葬部(第2主体部)は竪穴の石室で、刳抜式石棺が埋められ、中から滑石製勾玉や碧玉製管玉が出土。
墳頂からは豊後水道が見通せます。樹木が茂っていますが、海辺からもこの古墳がよく見えていたことでしょう。
被葬者は海洋民を統治した首長だと考えられ、その古墳の大きさはヤマト王権との強い繋がりを想像させます。彼が統治した豊後国の海沿いの地域・海人部では、いったいどのような集落が形成されていたのでしょうか。
基本情報
- 指定:国史跡「亀塚古墳」
- 住所:大分県大分市里
- 施設:海部古墳資料館(外部サイト)