神原神社古墳|卑弥呼の鏡?出雲の古墳から出土した「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が意味することとは。

卑弥呼が魏に使いを送ったとされる景初二年。その翌年の銘をもつ銅鏡が出雲の古墳から出土しました。この「景初三年」銘の三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡なのか。もし卑弥呼の鏡なら、なぜ出雲の古墳で発見されたのでしょうか。

神原神社古墳

出雲平野の中央を流れる斐伊川。この川を平野南側の山間へ遡ると、中流域あたりで赤川が合流してくる地点にぶつかります。この地点では山間の谷部に平野を形成しており、古くから農耕が行われていたといいます。

赤川|下流側を撮影
下流に向かうと斐伊川に合流する。遠く山並みの向こうが出雲平野。

この川沿いの微高地に神原神社が建っていました。神社境内は古墳の墳頂にあたり、社殿の修築に際して墳丘は削平されていたようですが、赤川の改修工事と神社の移転にともない、古墳の発掘調査が行われることになったのです。

神原神社古墳竪穴式石室(復元)
神原神社古墳竪穴式石室(復元)

調査の結果、古墳は29✕25m、高さ5m、古墳時代前期の方墳と判明。長さ5.8m・幅1mの竪穴式石室も現れ、中からは三角縁神獣鏡のほか、鉄製の武器・農工具が出土しました。出土品は重要文化財に指定され、石室も移設・復元展示されています。墳丘は造成工事のために消滅しました。

神原神社古墳出土鉄器■重文・古墳時代|古代出雲歴史博物館
5剣、6槍先、7鏃、8鎌、9・12斧、10鋤、11鑿、13針、14錐、15槍鉋で、すべて鉄製。

出土した三角縁神獣鏡はとても珍しいものでした。漢字による紀年銘文が彫られていたのです。その意味するところは「景初三年に陳氏が鏡を作った。この鏡を持つ者は子宝に恵まれ、長寿を全うするであろう。」ここに記された景初三年とは、いつのことなのでしょうか。

景初年間の出来事

景初とは中国・魏が使っていた元号です。景初元年~景初三年は、西暦237~239年にあたります。後漢王朝ののち、魏呉蜀の三国が鼎立した時代を経て、曹叡(そうえい。「明帝」とも)という皇帝が魏を治めていた時代です。『三国志・魏書・東夷伝倭人条』(通称「魏志倭人伝」)には、景初二年に倭国の女王・卑弥呼が魏に2人の使者を送った様子が詳しく記されています。

使者の名は、難升米(なしめ)と都市牛利(としごり)。2人は魏の都・洛陽で明帝に拝謁し、奴隷や布を献上しました。明帝は倭国からの朝貢をとても喜び、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与え、金印や紫綬を授けたそうです。そのほか、錦・絹・毛織物などの布製品や、金、刀、そして銅鏡100枚を卑弥呼に贈ったそうです。これの贈り物を持った難升米と都市牛利は240年(正始元年)に帰国しました。

この240年は元号が景初から正始に変わっていましたが、このとき卑弥呼に贈られた銅鏡100枚の中には景初三年に作られたものも含まれていたと想定されます。そのため、神原神社古墳から出土した三角縁神獣鏡は、卑弥呼に贈られた銅鏡100枚のうちの1枚だと考えられているのです。

卑弥呼の鏡か?

景初年間の卑弥呼の朝貢に対して魏の皇帝が贈った「銅鏡100枚」は三角縁神獣鏡であったという考えがあります。三角縁神獣鏡とは文字通り「鏡の縁の断面形状が三角形」で「神仙や霊獣が鏡背面に半肉彫りされている」銅鏡のこと。ここ10年で研究が大きく進んだようですが、まだまだ謎に包まれている鏡です。

まず「製作地の謎」があります。どこで製作されたのか、中国という説もあれば、日本(倭国)という説もあり、その間の朝鮮半島や、中国の技術者が倭国に来て作ったなど、様々な説が入り乱れている状態です。最近は中国製と日本製が混在しているという説が有力らしいですが、中国では三角縁神獣鏡が1枚も出土していないという課題を抱えたままです。

また「同氾鏡の謎」もあります。全く同じ文様の三角縁神獣鏡は同じ鋳型で作られたと見られ、これらの鏡のセットを同笵鏡と言います。この同笵鏡が遠く離れた別々の古墳から出土することがありますが、どのように各地の被葬者に渡ったのかわかっていません。この謎は、どこで作ったのか、海外製なら誰が輸入したのかという「製作地の謎」にも絡んでくるものです。

神原神社古墳から出土した「景初三年」銘の三角縁神獣鏡は、魏の皇帝から卑弥呼に贈られ、卑弥呼が出雲の首長に配布した鏡なのでしょうか。そのすべてを知る神原神社古墳の被葬者は、謎多き銅鏡だけを残して古墳もろとも消えてしまいました。

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