柳井茶臼山古墳|古墳時代最大の鏡は周防で出土。鏡の持ち主はどんな人物?

古墳時代最大の鏡は、直径約45cm。巨大古墳が林立する近畿地方ではなく、瀬戸内海に面した周防の地(山口県)で出土しました。この鏡はいったい誰がつくったのか。なぜ近畿地方から離れた場所で出土したのか。鏡の文様を手がかりに、鏡が出土した古墳の被葬者に迫っていきます。

古墳時代最大の鏡

全国の古墳から出土した銅鏡(円形のものに限る)の中で最も大きなものは、柳井茶臼山古墳から出土した径44.8cmの鼉龍鏡(だりゅう)です。鼉龍とはワニに似た動物で、中国に伝わる空想上の獣のこと。この鼉龍が鏡面に彫られていることからこの鏡名が付きました。鼉龍について知っていた人物によって彫られた鏡でしょうか。

しかし、この鼉龍鏡に彫られた動物、実は鼉龍でありません。よく見ると、この鏡には2種類の動物の顔が彫られています。1つは長い棒とセットになった小さな顔のもの。もう1つは、芋虫を思わせる胴体が左側に付き、髭らしきものを下側に生やした大きな顔のもの。特に、大きな顔の動物は、1つの頭に2つの体が付いたもののようにも見えることから「単頭双胴怪獣」などとも言われています。鼉龍鏡という名称は、このへんてこな怪獣を見た後世の研究者によって「鼉龍ではないか?」と名付けられ、現代に定着したものなのです。

では、この動物はいったい何なのか。この鏡にはモデルとなった鏡があると言われており、それが画文帯神獣鏡です。画文帯神獣鏡は、神仙と霊獣が浮き彫りされた鏡で、そこには正面を向いて座った仙人と、棒を咥えた龍の図が描かれています。鼉龍鏡でも本当はこのような図像を彫りたかったようです。しかし、神仙や龍などの原図の思想体系を十分に理解しないまま模倣を繰り返した結果、珍奇な怪獣が誕生してしまったのです。

こうした図像の変遷から、この鏡は倭人(日本人)が作ったものだと考えられています。それを示すかのように、原図では漢字が書かれた方形台座も、鼉龍鏡では〇が書かれているだけ。当時の倭人はまだ漢字を理解できなかったのでしょう。

柳井茶臼山古墳

この古墳時代最大の銅鏡「鼉龍鏡」は周防の地(山口県)に築かれた柳井茶臼山古墳から出土しました。柳井茶臼山古墳は、琴石山から瀬戸内海に向けてのびる丘陵の南端に築かれた、全長90mの前方後円墳です。

柳井茶臼山古墳
後円部3段、前方部2段の築成。海側に面した前方部を中心に円筒埴輪が並べられていた。

古墳の形状や埴輪から、古墳時代の4世紀末頃に築造されたと考えられています。墳頂からは瀬戸内海を眺めることができました。

後円部|前方部から撮影
造出し部分|後円部から撮影

埋葬施設は後円部に並んで2つあり、1つが竪穴式石室。こちらから直径44.8cmの鼉龍鏡のほか、もう1枚の鼉龍鏡(径22.8cm)と倭国製の内行花文鏡(径19.5cm)、中国製と見られる画文帯神獣鏡(径18.0cm)の4枚の鏡が出土しました。そのほか、鉄剣や勾玉なども見つかっています。

もう1つの埋葬施設は粘土槨と見られていますが、中は未調査です。

後円部墳頂

被葬者の人物像

柳井茶臼山古墳から出土した鼉龍鏡の図像は中国の鏡を十分に模倣できていませんでしたが、その精緻な造形表現は高い鋳造技術を示しています。このような技術者を抱えていたのはヤマト王権だと考えられ、この鏡は王権によって近畿地方で製造され、周防の地を治めていた首長に配布されたことが想定されます。最大径の鏡が配布されたということは、柳井茶臼山古墳の被葬者はヤマト王権から重きを置かれていたのかもしれません。

柳井茶臼山古墳前方部と瀬戸内海

柳井茶臼山古墳が築かれた丘陵付近は瀬戸内航路における主要な寄港地だったようです。ヤマト王権が朝鮮半島などと交易をおこなう際にも重要視されたことでしょう。日本書紀では景行天皇による九州遠征の途上で周防に寄港したことが記載されており、ヤマト王権の成立当初からこの地の首長たちは王権に服属していのかもしれません。そうした証として、巨大な鏡が配布されたのでしょうか。

室津半島(熊毛半島とも)の東側の付け根に築かれた柳井茶臼山古墳に対して、その次には半島の西側の付け根に白鳥古墳(前方後円墳・全長120m・県下最大)が築かれます。この地域では、これらの古墳の被葬者に「熊毛王」なる人物の一族を想定しています。文献には記されない架空の人物ですが、古墳時代最大の鏡を持つにふさわしい有力な首長がこの地にいたことは間違いないでしょう。

基本情報

  • 指定:国史跡「茶臼山古墳」
  • 住所:山口県柳井市柳井
  • 施設:茶臼山古墳資料館(外部サイト)