牽牛子塚古墳|完全再現!斉明天皇と間人皇女が眠る飛鳥時代の八角墳

天皇だけに許された古墳“八角墳”

近鉄飛鳥駅の周辺には越智丘陵、檜隈丘陵、真弓丘陵などがあり、飛鳥時代にはこれら丘陵に多くの古墳が築かれていました。しかも、ただの古墳ではなく、王族(皇族)関連の墓が多いと考えられています。飛鳥駅周辺は王陵空間を形成していたのです。

王陵といえば、方墳と円墳が合体した鍵穴のような形の「前方後円墳」を思い浮かべますが、大王(天皇)がこの形状の古墳に葬られたのは欽明天皇の頃までと言われています(欽明天皇の墓は檜隈丘陵に築かれました)。それ以降、大王は別の形状の古墳に埋葬されるようになりました。通常、天皇が前方後円墳に葬られていた時期までを「古墳時代」、それ以降を「飛鳥時代」と呼び、飛鳥時代の古墳は特に「終末期古墳」と呼び区別されています。

では、飛鳥時代の天皇はどのような古墳に埋葬されたのでしょうか。その代表的な形状が「八角墳」です。八角墳は八角錐の頂点を平らにしたような形状で、真上から見ると正八角形をしています。その墳形がよく分かるように、当時の実態にできるだけ近づけて整備されたのが牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)です。

牽牛子塚古墳
越智丘陵上に築かれた斉明天皇の真陵と考えられている。

2つの墓室をもつ横口式石槨

牽牛子塚古墳の「牽牛子」とはアサガオのことです。八角形の墳形がアサガオに似ていることからこの名前が付いたと言われます。墳丘はかなり崩れていたため正確な高さは定かではありませんが、三段築成であることは分かっており、向かい合う辺同士の距離は22mでした。王陵級の前方後円墳に比べると規模は小さいのですが、八角墳という形状のためか圧倒的な存在感があります。

牽牛子塚古墳|西側から撮影(全景)

斜面には二上山で採取された凝灰岩の切り石が使われており、整備にあたっても産地こそ違いますが同種の石材が使われています。こんなに隙間なくびっちりと張り合わされていたのかと疑問に思うかもしれませんが、発掘時の遺構でも同様の状態だったようです。当時の技術力の高さがうかがい知れます。墳丘の裾には自然礫が敷かれており、これも忠実に再現されていました。

墳丘壁面の切石
墳丘裾部の石敷

埋葬施設は横口式石槨です。しかも普通の石槨ではなく2つの墓室が設けられた特殊仕様でした。この石槨も二上山の凝灰岩が使われており、推定80トンの巨石を刳り貫いて墓室を作っています。石材の中でも柔らかく加工に適した凝灰岩ですが、これだけのものを加工してここまで運んでくる作業量はいかほどのものだったのでしょう。

牽牛子塚古墳横口式石槨
石槨内は2つの墓室からなり、ともに幅1.2m高さ1.2m奥行2m程度。人骨の一部も発見された。

墓室からは夾紵棺(きょうちょかん)の破片が見つかりました。夾紵棺とは漆で麻布を何枚も貼り合わせて作った棺のことで、当時では最高級のものだったと言われています。棺の外観は飾り金具で装飾もされていたようです。

夾紵棺|橿原考古学研究所附属博物館(重文・飛鳥時代)
七宝飾金具|橿原考古学研究所附属博物館(重文・飛鳥時代)

この石槨は閉塞石によって二重に閉じられていました。墳丘の盛土や石材は再現されたものですが、石槨や閉塞石は当時のままの実物が現地で見学できます。石槨内部の見学は事前予約制で有料となっていますが(2024年8月現在)、予約の手間と金額をはるかに超える感動を味わえるのでぜひ見学してみてください。

横口式石槨入口と閉塞石
手前に倒れかかっている板石が外側の閉塞石。内側の閉塞石は明日香村埋蔵文化財展示室に展示されている。

埋葬された3人の女性と中大兄皇子

牽牛子塚古墳は斉明天皇の墓だとする説が有力です。日本書紀には「天智天皇6年(667年)、斉明天皇と娘の間人皇女を小市岡上陵に合葬した」と記されていて、牽牛子塚古墳の立地(小市岡(おちのおか)=越智丘陵)と2人用の石槨とが、この記載内容と一致するからです。

斉明天皇(即位前は宝皇女(たからのひめみこ)と呼ばれていた)は茅渟王(ちぬおう)と吉備姫王(きびのひめみこ)を父母とし、どちらかいうとマイナーな王統に属していましたが、舒明天皇の后となって間人皇女(はしひとのひめみこ)、中大兄皇子(のちの天智天皇)、大海人皇子(のちの天武天皇)の3人を産んだほか、弟である軽皇子が孝徳天皇として即位、自身も皇極天皇として即位しさらに重祚して斉明天皇となるなど、成人後は常に天皇家の中心にいました。

斉明天皇家系図

系図上こういった有力者に囲まれているために、皇極=斉明天皇自身は「中継ぎの女帝」と見られ、特に中大兄皇子のもとでただ矢面に立っていただけの天皇というイメージが強く残っています。しかし、近年の明日香村内での発掘で斉明天皇に関わる遺跡が発見されたことをきっかけに位置づけが見直されてきました。中大兄皇子の操り人形ではなく、自分の意思で数々の政策を実行してきたと考えられるようになってきたのです。

参考記事

酒船石遺跡|斉明天皇の祭祀施設か?亀形の導水施設と謎の酒船石

酒船石遺跡は奈良県高市郡にある国史跡。切石が積まれた石垣や酒船石と呼ばれる謎の石造物のほか、亀形石槽を用いた導水施設が発見されました。これらは斉明天皇が築いた祭祀施設の跡だと考えられています。

一方でこれに伴い、中大兄皇子の位置づけが相対的に低くなってきました。近年では「大化改新の中心人物は中大兄皇子・中臣鎌足ではなく、孝徳天皇だった」「難波宮から飛鳥宮に還都したのは中大兄皇子の要望ではなく斉明天皇の意思だった」とする学説も出ており、この時期の見方が大きく揺れ動いています。

上の日本書紀の記述の続きには「大田皇女(おおたのひめみこ)を陵(斉明・間人陵)の前の墓に葬った」と記されています。牽牛子塚古墳のすぐ傍らには越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)と呼ばれる方墳があり、飛鳥地方の石材を使った立派な横口式石槨も発見されました。この墓が大田皇女の墓だと見られています。

越塚御門古墳
盛土は再現整備されたもの。
越塚御門古墳横口式石槨
蓋石は一部が残るのみだが、床石とともに当時の実物。

大田皇女は中大兄皇子の娘です。中大兄皇子はこの大田皇女のほか鸕野皇女(のちの持統天皇)という2人の娘を大海人皇子のもとに送って后としました。娘を2人も嫁がせてまで弟との関係を強固にしようとしたことは、このとき中大兄皇子の権力が盤石ではなかったことの表れのかもしれません。

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