作山古墳|吉備地方に築かれた巨大古墳 Part2
吉備地方では、全国第4位の造山古墳(全長350m)ののち、近距離に第10位の作山古墳が築造されました。2つ目のツクリヤマ古墳を通して、古墳時代中期を見ていきます。
倭の五王
応神天皇ののち、天皇位は仁徳天皇→履中天皇→反正天皇→允恭天皇→安康天皇→雄略天皇と引き継がれていきます。これらの天皇は、中国皇帝の威光を借りるために413年から502年にかけてあいついで中国に朝貢しました。中国の歴史書では、この時期に朝貢してきた王の名を、讃・珍・済・興・武として5人記しています。通称、倭の五王です。
彼らは、国内での権威を高めるために中国の官職を求めました。珍と興は「安東将軍」の将軍号をもらい、済と武は「安東大将軍」の称号をもらっています。このうち珍は、天皇が独自に臣下に授けていた平西将軍・征虜将軍・冠軍将軍・輔国将軍など13人の将軍号を正式に認めてるよう要求し、承認されています。のちの済も、軍郡としていた臣下23人の称号を正式に認めてもらっています。
これら臣下の称号の内、「平西将軍」は、珍が与えられた「安東将軍」と身分的な差があまりないようです。このころの天皇の力は臣下を圧倒するものではなく、天皇に匹敵する豪族が存在していたことも示します。これら、五王とともに中国から承認された臣下の中には、有力な地方豪族も含まれていたのではないかと考えられています。
作山古墳
天皇に匹敵する有力な豪族がいたと考えられている地方の一つが吉備です。吉備では、まさに倭の五王が朝貢を開始したころに造山古墳という全国第4位の全長をもつ古墳が築造されていました。
そののち5世紀中頃には、造山古墳から3km程度の近さのところに作山古墳という古墳が築かれます。ともにツクリヤマ古墳と読みますが、造山古墳と区別するためにサクザン古墳と呼ばれています。
作山古墳は全長282mの古墳で、全国第10位。三段築成の前方後円墳です。北西の前方部隅から墳丘に登ることができ、段築の様子がよくわかります。ここには円筒埴輪が立て並べられ、斜面には葺石がふかれていました。
立入のできる古墳としては第3位の全長をもつ前方後円墳とだけあって、前方部から後円部にかけての巨大さは壮観です。
後円部は正円ではなく、長軸方向にやや長い楕円形とのこと。作山古墳は低丘陵を削りとることで成形されており、より省力しつつ長さを確保するために楕円形になったと想定されています。木々が茂っているため眺望はよくありませんが、南東側には当時もいまと同じように水田が広がっていたのかもしれません。
南面では民家が造成されて削りとられていますが、北面は造り出しも良好に残っています。しかし周濠は確認されていません。
造山古墳から大きく全長を減らしたとは言え、天皇陵に匹敵する大きさをもつ作山古墳。この古墳の被葬者が大きな勢力を持っていたことは確かです。倭の五王が代表して称号の承認を求めた臣下の中にいたかもしれません。
吉備地方と雄略天皇
倭の五王がどの天皇に該当するかはいまも議論が続いており、確たる定説はありませんが、唯一「武」だけは雄略天皇であることが有力視されています。『日本書紀』には、雄略天皇と吉備地方にまつわる記事が記されています。
吉備地方の有力豪族である前津屋(サキツヤ)という人物が、小女を雄略天皇に、大女を自分に見立てて喧嘩をさせ、小子が勝つと刀を抜いて殺してしまう、これと同じことを鶏でも行っている、そのような話が雄略天皇に伝わりました。これは自分を呪詛しようとする行為だと憤慨した雄略天皇は、兵30人を吉備に送って前津屋の一族70人を誅殺しました。
また、同じく吉備地方の有力豪族、田狭(タサ)の妻がとても美しい女性であるという話を聞いた雄略天皇は、田狭を朝鮮半島に赴任させ、その間に妻を強奪しました。のち雄略天皇の死後、この妻は自分の皇子が皇位に就くよう反乱を企て、鎮圧されています。雄略天皇の時代は作山古墳が築かれた時期よりも後のことですが、吉備の豪族と天皇との間にはこのような確執があったのでした。
古墳時代中期にあたる倭の五王の時代には、天皇家内部の皇位継承争いも頻発しており、地方の有力豪族が台頭する隙が生じていたようです。天皇の本拠地である畿内でも、大山古墳をピークに古墳は縮小を続けるのでした。
基本情報
- 指定:国史跡「作山古墳」
- 住所:岡山県総社市三須
- 施設:埋蔵文化財学習の館(外部サイト)