田染荘|現代に残る鎌倉時代の荘園風景

奈良時代に始まり、平安時代後期に最も発展した荘園制。鎌倉時代になって武家勢力に侵食され、やがて室町時代に終焉を迎えますが、荘園内の村落は、荘園制の盛衰の中でときの権力や文化の影響を受けながらも営みを続けていきます。鎌倉時代の荘園風景をいまに残す田染(豊前国国東郡)の荘園を通して、荘園制の発展と衰退を見ていきます。

荘園の誕生

743年、墾田永年私財法が発布されたことで、荘園の歴史は始まります。この頃、全国的に飢饉や疫病が蔓延し、人々は疲弊し、田は荒れるばかりでした。そこで朝廷は、新たに開墾した土地について永代の私有を認める墾田永年私財法を定めることで、荒廃した農地の再生や新しい水田の開墾を促し、国土の生産力を回復させようとしました。その結果、貴族・寺社や在地の有力者などは私財を投じて開墾を行っていき、私有地を増やしていきました。

豊前国の国東郡(くにさき。大分県北部)でも、この地の有力神社である宇佐神宮が周辺の土地を荘園として獲得していきます。おりしも、奈良の都では東大寺の大仏が造立されようとしており、宇佐神宮はこの国家事業へ協力を表明して中央の政治舞台に躍り出ようとしていました。こうしたことから、宇佐神宮の荘園には、封戸ふこ(その土地から得られた租や庸調などの税を宇佐神宮のものとする)として朝廷から与えられたものもあります。

荘園の発展

平安時代になると、増加した荘園から効率的に徴税するために、中央から赴任する国司の権限が強化されました。国司の長官「受領ずりょう」は、任国内の農地に自由な税率を設定することができるようになったのです。

これに対して、荘園の持ち主側は税の減免(減額や免除)を受領に要求しました。その1つの手段が「寄進」です。荘園主は、院などの皇族・藤原氏などの摂関家・東大寺などの有力寺社などに自分の荘園を寄進(収穫の一部を納入)することで保護してもらうことにしたのです。中央から赴任してくる受領は中級貴族が多かったため、彼らよりも上位の層に働きかけることで、税の減免を有利に運ぼうとしたのでした。

このような最上位層を本家、次の層を領家、現地で実際に土地の経営を行う有力者を荘官と呼びます。荘園は、これら3層からなる権益体制によって支配されるようになったのです。

国東くにさき郡の田染荘たしぶのしょうはちょうどこの頃に成立したと見られています。田染荘では、領家の宇佐神宮が現地の有力者を荘官に任命して農地管理に当たらせる一方、藤原摂関家に荘園を寄進し本家として仰ぎました。

荘園の土地は「みょう」と呼ばれる徴税単位に分割されて管理されました。田染荘内は「本郷」「吉丸よしまる名」「糸永いとなが名」の大きく3つに分割されており、当時の百姓たちはこの「名」の中で生活を営んでいました。

荘園の転換

鎌倉時代に入ると、鎌倉幕府が荘官の任命権を独占するようになります。幕府は御家人を現地に派遣し、荘園管理に当たらせました。幕府によって派遣された荘官が「地頭」です。荘官の任命権を失った本家や領家は荘園内での立場を弱め、代わりに地頭が実権を握るようになります。こうしたことから、荘園内での3層体制は解消され、単独の領主が一円的に荘園を支配する体制に移行していきます。田染たしぶ荘では、豊後ぶんご国に下ってきた大友氏の一族や肥前国の御家人・曾根崎そねざき氏などが地頭として荘園支配を行いました。

このような中、元寇(1274年・1281年)が勃発。九州に襲来しようとする元軍に対して、宇佐神宮を始めとする九州の寺社は異国調服の祈祷を行い、天候の助けもあって撃退に成功します。この恩賞として「神領興行しんりょうこうこう」が行われました。「神領興行」とは、もともと神領だった土地をもとの神社に返却する徳政のことです。武家の手に渡った多くの荘園は神社のもとに戻されたのでした。こうして田染荘も宇佐神宮の下に戻り、宇佐神宮の神職であった田染氏一族が荘園を経営するに至ります。

荘園の景観

現在の田染たしぶの景観を通して、中世・鎌倉時代の荘園風景を見てみましょう。

小崎地区

田染荘内の小崎おざき地区は、田染荘の拠点集落があった地区です。江戸時代に描かれた村絵図が残っており、江戸時代から現代までに土地の改変があまり行われていないことが分かっています。

小崎村絵図複製|大分県歴史博物館
1689年作成の絵図を1826年に写したもの。茶色の部分が水田。

さらに、鎌倉時代後半の文書に記された土地の名称が現在も残っていることから、鎌倉時代の景観が現代にまで続いてると考えられているのです。

田染荘小崎|小崎地区東側の夕日岩屋から西側を撮影
田染荘小崎|小崎地区西側の展望台から東側を撮影

地区の中央には、鎌倉時代当時に台薗だいそんと呼ばれた集落が残っています。現在の集落内にある延寿寺の境内は、鎌倉時代に荘園の管理者・田染たしぶ氏が居館を営んだ場所です。境内の周囲には、中世に築かれたとされる石垣の一部も残っています。

田染荘小崎|小崎地区東側の夕日岩屋から撮影
田染荘小崎復元模型|大分県歴史博物館(縮尺1/400)
延寿寺正門
境内北辺に残る石垣

小崎地区の大部分の水田は、地区の中央を流れる小崎川から水を引いています。鎌倉時代の文書で「ヤマノクチ」と記された堰は今でも利用されています。集落の西側にある雨引社があり、ここから流れ出る湧水をもとに小崎地区の水田開発が始まったと言われています。いまでも田の一部はこの湧水を利用しており、神社には村の鎮守で、天水分神あめのみくまりのかみが祀られています。

小崎川ヤマノクチ堰
雨引社

荘園内の寺院

小崎地区から北側へ山を超えた谷間には上述の「糸永名いとながみょう」があります。谷間を流れるふき川沿いに水田が広がっており、蕗川の灌漑用水を利用して稲作が営まれていました。

田染荘蕗地区「糸永名」

名内には富貴寺ふきじがあります。この寺の大堂は平安時代後期に建立された阿弥陀堂です。堂内には浄土の世界が彩色されていました。

富貴寺大堂■国宝・平安時代

田染荘の南域には伝乗寺でんじょうじがあり、この寺院の大堂(通称「真木大堂まきおおどう」)には、都の仏師が彫ったとされる平安後期の仏像が安置されています。現存する9体の仏像のうち1体は阿弥陀仏で、当時都で流行していた浄土思想が本家であった摂関家をとおして荘園内の寺院に取り入れられたのかもしれません。

伝乗寺大堂「真木大堂」
安置されている仏像9体はすべて重文。

荘園の終焉

室町時代になると荘園は徐々に衰退し、守護大名の領国に組み込まれていきました。田染荘では、田染氏の系譜が途絶え、宇佐神宮神職の永弘ながひろ氏が荘園支配を引き継ぎます。そして、徐々に豊後国守護の大友氏の領国として組み込まれていき、荘園としての枠組みは消滅していきました。

荘園制が崩壊した後も、「名」の村落は残り続け、人々は荘園の土地利用にもとづいて営みを続けます。しかし、昭和の大規模な圃場整備によって新しく水田が拓かれ、水路が引かれ、集落は移動し、残っていた荘園痕跡の多くは消滅していきました。そのような時代の流れの中でも、田染荘の小崎地区は大きな改変が行われず、鎌倉時代の荘園景観を留めています。

基本情報

  • 指定:重要文化的景観「田染荘小崎の農村景観」
  • 住所:大分県豊後高田市田染小崎
  • 施設:大分県立歴史博物館(外部サイト)