丸山古墳|筑紫君一族の墓、八女古墳群を歩く【Part3 八女群・釘崎小群&立山山小群】
岩戸山古墳や乗場古墳から成る八女群・吉田小群から東側には、同じく八女群の釘崎小群と立山山小群があります。これら2つの小群は筑紫君一族に仕えた重臣の墓だと見られています。前回に引き続き西から東に向かい、釘崎小群と立山山小群を歩きます。
釘崎小群
鶴見山古墳から10分ほど歩くと、釘崎小群が現れます。5世紀後半から6世紀後半にかけて、東西に伸びる八女丘陵に直交するように、小型の前方後円墳4基と複数の円墳が南北に連なって築造されました。
4基の前方後円墳のうち、釘崎2号古墳は5世紀後半の築造と見られる全長40m程度の前方後円墳です。
2号古墳と隣接する釘崎1号古墳は藪に覆われていて形状がよく分かりません。6世紀半ばに築造されたものだと推定されています。
そのほかの前方後円墳については、4号古墳が壊滅状態(石製表飾か石棺と見られる石板が残るのみ)。3号古墳は完全に消滅していますが、武器類や馬具類が出土しており、6世紀後半の築造だと想定されています。
出土物の内容から、釘崎小群の被葬者は筑紫君一族に仕える武人だったのではないかと考えられています。「磐井の乱」でも、磐井と一緒にヤマト王権の軍と戦ったのかもしれません。磐井の乱は激戦だったようなので、古墳の被葬者もかなり奮闘したのではないでしょうか。
立山山小群
釘崎小群から東へ丘陵を下っていくと、立山山小群に入ります。釘崎小群と同様5世紀代から6世紀後半にかけ、円墳を中心に築造され続けました。中でも、前方後円墳の丸山古墳が全長46mの最大規模です。石室は未調査ですが、6世紀前半に築造されたと見られています。
立山山古墳群からは金製の垂飾耳飾などの舶来の宝飾品が出土しており、この古墳群に眠る一族は外交に携わる重臣だったのではないかとも見られています。
釘崎小群と立山山小群は、筑紫君一族の本家が眠っているとされる吉田小群よりもやや低い場所に位置しており、歩いて巡るとその高低差を実感できます。墳丘サイズも小さいため、筑紫君一族に仕えた臣下が葬られていると考えられています。出土した副葬品の中には貴重な優品も見られることから、要職に就いて筑紫君からも重く見られた重臣の一族が、代々この地に古墳を築造したのかもしれません。
基本情報
- 指定:国指定「八女古墳群(丸山古墳)」
- 住所:福岡県八女市本
- 施設:岩戸山歴史文化交流館(外部サイト)