造山古墳|吉備地方に築かれた巨大古墳 Part1

畿内河内で、巨大な大王墓が築かれはじめたころ、吉備地方においてもこれに匹敵するほどの巨大な古墳が造営されました。ツクリヤマ古墳と呼ばれる2つの前方後円墳とともに古墳時代中期を見ていきます。

古墳規模の巨大化

巨大古墳の歴史は古墳時代前期の奈良盆地東南部から始まります。ここに築かれた大和・柳本古墳群には、全長280mの箸墓古墳のほか、西殿塚古墳(219m)、行燈山古墳(240m)など200m級の古墳があり、最後に渋谷向山古墳(300m)が築かれピークを向かえます。これらは、ヤマト王権の初期の大王墓だと想定され、古墳時代前期の前半に相当します。

次に、巨大古墳の築造地は奈良盆地の北部に移り、佐紀盾列古墳群を形成します。ここでは、五社神古墳(275m)、佐紀石塚山古墳(218m)、佐紀陵山古墳(207m)などの巨大古墳が築かれました。これらも大王墓だと想定されています。古墳時代前期の後半のことです。

古墳時代中期に入ると状況は一変します。古墳の造営地が奈良盆地から生駒山地を超えて河内平野に移るのです。そして、これまで巨大古墳の最大規模は300mで、200m級のものが主流でしたが、これをはるかに凌ぐ古墳が築かれるようになりました。河内平野の古市・百舌鳥古墳群で最初に造営されたのは津堂城山古墳(208m)ですが、続く仲津山古墳(全長290m)を経て、石津ヶ丘古墳(360m)、誉田御廟山古墳(425m)、大山古墳(486m)と、300m級を優に超えて、400m級の古墳が築かれます。これらヤマト王権の王墓の巨大化は、この時期に王権の勢力が強大化し、その政治基盤が確立したことを示します。

しかし、これら河内平野の巨大古墳とほぼ同じ時期、吉備にも巨大な古墳が築かれていました。それが造山古墳です。

造山古墳

造山古墳は全長350mの前方後円墳です。大山古墳、誉田御廟山古墳、石津ヶ丘古墳に次いで全国第4位の大きさ。上記3古墳は陵墓指定のために立ち入りができないため、墳丘上に立つことのできる古墳としては全国で最も大きな古墳になります。ツクリヤマ古墳と読みますが、後に造られる作山古墳と区別してゾウザン古墳と呼ばれます。

造山古墳と陪塚の位置図|造山古墳案内板

もともとあった低丘陵を削り取ることで造成されており、その際に生じた土を盛り土しながら墳丘を成形しているようです。周濠を掘って土を確保する必要がなかったため、大規模な周濠は確認されておらず、現時点では後円部の一部に濠が確認されている程度。

総社平野|後円部から撮影

後円部からは平野側を一望に見渡せます。ここから見える山並みは古墳時代から変わっていないのではないでしょうか。北面側には前方部との付け根に造り出し部分が残っています。残念ながら、南面は民家が立ち並び大きく改変を受けていました。

造り出し|後円部から北面を撮影
前方部|後円部から撮影

前方部には荒神社が建立されていますが、傍らには石棺と見られる巨石が残っています。この石は阿蘇溶結凝灰岩という九州産の石材。ただ、造山古墳から出土したという確たる証拠はないそうです。

石棺身
石棺蓋

古墳全体は三段築成で、表面には葺石がふかれ、各段には円筒埴輪も立て並べられていたようです。築造された時期については、出土した埴輪から石津ヶ丘古墳と誉田御廟山古墳の間、須恵器の編年から5世紀第1四半期に築造されたと推定されています。

造山古墳全景|北側から撮影

周辺には6基の陪塚が確認されています。6基は同時に作られたわけではなく、出土した埴輪の状況から、造山・5号→4号→2号の三段階の順番が想定されています。5号古墳は千足古墳とも呼ばれ、綺麗に復元整備され、最近は石室内に入ることができるようです。九州地方に起源をもつ古式の横穴式石室で、九州産の石材も用いられています。造山古墳前方部にあった石棺ともあいまって、九州地方との深い関係が窺われます。

5号古墳(千足古墳)
前方後円墳。復元整備が完了し、横穴式石室は内部に入れるようになった。

吉備地方と応神天皇

造山古墳が築造されたとする5世紀第1四半期は、いろいろな説があるものの、概ね応神天皇の治世下であったと考えられています。『日本書紀』には、応神天皇が吉備に行幸した際に、御友別(ミトモワケ)という人物が兄弟そろって饗応を開き、天皇はその奉仕に感動したことが記されています。ミトモワケは、最初に吉備を征圧した吉備津彦(キビツヒコ)と稚武彦命(ワカタケヒコ)の後裔にあたり、妹は応神天皇の妃になっていました。このように、天皇家と吉備地方はもともと繋がりがあったうえに応神天皇のときに特に結びつきを強くしたようです。

吉備地方は、荒神社の石棺や陪塚の石室に見られる九州地方とのつながりや周辺から渡来系の遺物が出土することなどから、物資や情報が集まる交通の要衝でした。これらの交易によって多くの富が蓄積され、巨大古墳を築造するための経済的な土壌が整っていたのだと考えられます。

こうした土地に、応神天皇とのつながりで畿内から巨大古墳を造営するための土木技術が伝わり、造山古墳のような巨大古墳の築造に繋がったのかもしれません。造山古墳は、応神天皇の御陵とされる誉田御廟山古墳と同じ設計原理を持つとも考えられています。しかし、竪穴式石室と目される造山古墳の埋葬部は未発掘であり、被葬者についての情報はほとんどありません。畿内の大王墓に匹敵する巨大古墳の被葬者は、一体どのような人物だったのでしょうか。

造山古墳が築造されたのち、ここから西へ3km程度離れた場所に新たな巨大古墳が造られました。全国第10位の全長を持つ作山古墳(282m)です。

基本情報

  • 指定:国史跡「造山古墳  第一、二、三、四、五、六古墳」
  • 住所:岡山県岡山市北区新庄下
  • 施設:岡山市埋蔵文化財センター(外部リンク)