平安神宮|復元された応天門・大極殿で体感!平安貴族の"政務"と"儀式"

平安京の中心である平安宮には朝堂院や内裏といった巨大建築物がありました。公的な行事が執り行われたこれら建物は、京都市街地の地中に眠っており、その遺構がわずかに保存されているだけで、当時の様子を窺い知ることはできません。そのような中、平安宮の様子を体感できる場所の1つが平安神宮です。平安遷都1100年を記念して建立された平安神宮の社殿は平安時代の朝堂院を5/8スケールで復元したもの。朝堂院の2大行事「政務」と「儀式」を見ていきます。

政務

「政務」とは政治に関する事務手続きのことを指す学術用語です。この「政務」の話に入る前に、平安時代の官僚組織である「二官八省」について話しておきたいと思います。

律令制における国家の統治機構は「神祇官(じんぎかん)」と「太政官(だいじょうかん)」の大きく2つに分けられていました。神祇官は祭祀を所管し、太政官は政務を所管しました。太政官は「議政官(ぎじょうかん)」とその下部組織である「少納言局(しょうなごんきょく)」と「弁官局(べんかんきょく)」から構成されています。議政官は政策決定機関で、少納言局と弁官局(左弁官・右弁官)はその事務機関になります。

この太政官組織の下に細分化された行政組織が置かれました。左弁官局が統括する中務省(なかつかさしょう)・式部省(しきぶしょう)・治部省(じぶしょう)・民部省(みんぶしょう)の4省と、右弁官局が統括する兵部省(ひょうぶしょう)・刑部省(ぎょうぶしょう)・大蔵省(おおくらしょう)・宮内省(くないしょう)の4省です。

これら官司には、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)という中核官職に就く官人がいました。例えば太政官では次のような官職から構成されていました。

  • 長官:太政大臣、左大臣、右大臣
  • 次官:大納言、中納言、参議
  • 判官:少納言、弁官
  • 主典:外記(げき)、史(し)

各官司は主に朝堂院外の「曹司(そうし)」と朝堂院内の「朝堂(ちょうどう)」という2種類の庁舎を持っています。曹司では主に六位以下の官人や雑任(ぞうとう)などが事務や下働きを行っていました。一方、朝堂では主に五位以上の上級官人が参集し、決められた席に座って曹司から上がってきた事案を処理していました。この席のことを「朝座(ちょうざ)」と呼びます。

参考記事

官職・位階|平安時代の官位制を大解説!仕組みが分かれば古代史はさらにおもしろい

古代の律令国家では官職(四等官制)と位階(官位相当制)によって統制された官僚たちが政治を行っていました。平安時代を代表する貴族・菅原道真のキャリアパスをもとに官位の仕組みを見ていきます。

朝政

「政務」の1つが「朝政(ちょうせい)」です。名前の由来は、朝堂院内の朝座に座った上級官人が執り行うことから「朝座政(ちょうざせい)」と呼ばれたためです。

律令制での一日の政務は早朝から始まります。朱雀門から宮内に入った官人は、そのまま応天門に進み、まずは朝集堂に入って、身だしなみを整えたりしながら始業の時間を待ちます。

応天門を模した神門■重文・明治時代

始業時間になると会昌門から朝堂院内に入り、決められた座について執務を始めます。各省の官人たちは曹司から上がってきた文書に目を通し、長官の判断で処理できる案件については曹司側に指示を返して捌いていきます。しかし、各省レベルでは判断できない重要な案件ついては、太政官に回されることになります。

西朝堂を模した額殿|東側から撮影
西朝堂を模した額殿|南側から撮影

官人たちは太政官に回すために文書を整え、少納言や弁官が待機している東第五堂「暉章堂(きしょうどう)」に向かいます。少納言・弁官クラスで決裁できる案件であればここで処理され、重要なものは大納言クラスに回されます。官人たちは弁官とともに文書を携えて、大納言と中納言が待機する東第二堂「含章堂(がんしょうどう)」に向かいます。

さらに重要な案件は、左右大臣が座す東第一堂「昌福堂(しょうふくどう)」に回されました。そしてここで決裁できないものについては、最終意思決定者である天皇に回されるのです。天皇も大極殿に出御して待機しており、大臣から奏上を聞いてその場で指示を出していました。

しかし、このような理想の「朝政」は奈良時代の後半には廃れていました。平安時代には天皇が大極殿に出御せず内裏で奏上を受けるようになりました。奈良時代前半までの律令制当初は、天皇が朝政の場に立ち会うことで官人たちに服属意識を植え付ける必要がありましたが、時代が進んで天皇と官人の服属関係がはっきり固定されると、天皇が毎日立ち合う必要性がなくなってきたのでしょう。

官政

天皇が大極殿に出御しなくなると、太政官の面々は朝堂院内に待機するのではなく、内裏の天皇に奏上しやすい場所へと移っていきます。彼らは、朝堂院を出て、すぐ隣の曹司で意思決定を行うようになりました。ここはもともと太政官のための曹司「太政官庁」で、太政官の事務を担う雑任たちが働いている場所でした。ここ太政官庁での政務を「太政官政(だいじょうかんせい)」(略して「官政」)と言います。太政官の移動に合わせて、八省の官人たちもそれぞれに割り当てられていた曹司で政務を行うようになりました。

もともと律令制でも11~2月の間は朝堂院で執務をせず、各曹司で執務をすることになっていました。朝堂院は広く、建物もまばらであったため、冬季はかなり寒かったからとのことです。このように、政務の場は朝堂院から内裏へと移っていき、その政務の呼び名も「朝政」から「官政」へと変わっていきました。

儀式

政治に関する事務手続きを「政務」と呼ぶのに対して、公の催しに関する行事の手続きを「儀式」と呼びます。朝堂院で行われた「儀式」には、次のようなものがありました。

  • 即位、朝賀、視告朔(こうさく)など(天皇と官人の関係性を確認する儀式)
  • 出雲国造奏神賀詞など(天皇の正当性を確認する儀式)
  • 受蕃国使表など(天皇と外国使節との儀式)
大極殿を模した外拝殿■重文・明治時代

ここでは元日に行われる朝賀を見ていきます。元日朝賀は、大極殿に出御した天皇に対して官人たちが新年の拝賀を行う儀式です。

西楼を模した白虎楼■重文・明治時代
東楼を模した青龍楼■重文・明治時代

1月1日朝、官人たちは朝庭に参入し、版位(へんい)という位階ごとに立ち位置を示す標識の上に立ち、整然と立ち並ぶことになります。官人たちは位階によって衣服の色が決まっていたので、朝庭は総勢900名の官人によって綺麗なグラデーションで彩られたことでしょう。

神門・内庭|外拝殿から撮影

やがて天皇が正装で大極殿に現れ、高御座(たかみくら)に着座。続いて皇后が現れて着座します。準備が整うと、皇太子が大極殿に登り、天皇御前で賀詞を述べます。それに対して、天皇から皇太子へ詔を下します。次に、臣下の代表者が大極殿前庭に進み出て、天皇へ賀詞を述べます。それに対して、天皇は詔を下します。一連のやり取りが終わった後、百官はともに拝舞し、旗を振って万歳を称し、再拝を行いました。このような流れで執り行われた朝賀は、官人たちが天皇に対して服属を誓うという、律令国家を象徴する儀式だったのです。

外拝殿内部

しかし、平安時代中期になると、これらの儀式も簡略化されたり廃れたりしていきます。元日の朝賀については、まず皇后が出御しなくなり、つづいて皇太子の奏賀がなくなり、簡略化していきました。また、毎年の恒例が、新天皇が即位した翌年の元日のみに。最終的には開催されなくなってしまいます。

とはいえ、元日の天皇への挨拶自体がなくなったわけではありませんでした。小朝拝という形になって規模を縮小し、場所を変えて行われ続けたのです。政務と同様、儀式についてもその主要場所は内裏に移って行きました。

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京都御所|復元された紫宸殿・清涼殿で体感!平安貴族の"政務"と"儀式"

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基本情報

  • 指定:なし
  • 住所:京都府京都市左京区岡崎西天王町
  • 施設:平安神宮(外部サイト)