官職・位階|平安時代の官位制を大解説!仕組みが分かれば古代史はさらにおもしろい

古代史(特に奈良・平安時代)ゆかりの史跡を巡ったり関連書籍を読んだりしていると、多くの人名が出てきます。彼らの多くは国家の中で重要なポストに就き、それこそ歴史に名を残すほどの大事を成し遂げた官僚(公務員)たちでした。古代の日本は、律と令によって統治され、律令国家とも呼ばれていましたが、彼ら官僚たちはこの令に規定された官僚制の枠組みの中で働いていたのです。律令国家における官僚制について知っていると、彼らの存在をよりリアルに、より生き生きと思い浮かべることができるでしょう。今回は、主に平安時代を中心に律令国家の官僚制についてピックアップします。

官司|二官八省制

「官位」の説明に入る前に「官司(かんし)」について触れておきます。官司とは古代官人が働いていた行政組織、つまり「役所」のことです。律令国家における行政組織は、2つの官と8つの省に1つの台と6つの衛府を加えた、天皇を中心とする組織体制のことです。これを「二官八省制」と言います。

具体的には、まず天皇を頂点に神祇官と太政官の2官が置かれました。神祇官は神事を司る組織で、太政官は行政のすべてを統べる意思決定機関です。太政官の中には小納言局・左弁官局・右弁官局の3つの下部組織が置かれ、太政官内の事務や下部組織との連絡調整を行いました。

太政官の下には中務省・式部省・治部省・民部省(以上4省は左弁官局の管轄)、兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省(以上4省は右弁官局の管轄)の8省が各分野の事務を掌っていました。各省内には、職・寮・司などの下部組織があり、細かな事務分担がなされます。

これら行政組織の他には、弾正台という組織が置かれ、監察や治安維持を担いました。また、宮内の警護役として、近衛府・衛門府・兵衛府が平安宮の東西(左と右)6箇所に置かれ、六衛府と呼ばれました。この二官八省一台六衛府が中央政府の組織体系です。時勢に合わせて統廃合が行われたり、蔵人所や検非違使といった新しい組織が創設されたりもしました。

中央政府に対して、各地域を統べる地方行政の組織も置かれました。都では左京職と右京職が京内の行政を管轄し、地方各国では国司と郡司が置かれて地方行政を担いました。また、対アジア上の重要地であった九州には大宰府が置かれ、外交や軍事について指揮権を持っていました(「大宰=広域行政の長」の府))。平安時代の官僚たちはこれら「官司」に所属し、働いていたのです。

官職|四等官制

では本題の「官位」についての説明に入ります。「官位」は「官職」と「位階」という2つの制度でなりなっています。まずは「官職」についてです。

「官職」とは各官司の中で官僚たちが任命された職のことです。律令国家では、各官司で中心的な業務を担う職を長官・次官・判官・主典の四等級にわけていました。これら4つの官職は官司の規模によって別々の漢字を当てていましたが、読みは一律にカミ・スケ・ジョウ・サカンです。この制度を「四等官制」と言います。

四等官神祇官太政官衛府国司郡司大宰府
長官大臣大夫大領
次官納言少領
判官主政
主典史外記主帳

一部の官職は「大輔」や「少弐」などのように大少のランクでさらに分けられました。また律令に規定された定員以上に任命する場合は権官(ごんかん)として「権守」や「権大夫」などが設定されました。

位階|官位相当制

では「官職」の対となる「位階」とはどのようなものだったのでしょうか。「位階」とは、正一位から少初位下まで30階に分けられた身分の序列のことです。当時の官僚たちは位階という序列が与えられ、身分が定まる仕組みでした。身分の高い順から以下のようになっています。

  • 正一位、従一位
  • 正二位、従二位
  • 正三位、従三位
  • 正四位上、正四位下、従四位上、従四位下
  • 正五位上、正五位下、従五位上、従五位下
  • 正六位上、正六位下、従六位上、従六位下
  • 正七位上、正七位下、従七位上、従七位下
  • 正八位上、正八位下、従八位上、従八位下
  • 大初位上、大初位下、少初位上、少初位下

正は「しょう」、従は「じゅ」と読みます。正四位下は「しょうしいのげ」、従七位上は「じゅしちいのじょう」などのように読みます。三位は「さんみ」、初位は「そい」と特殊な読み方をします。一般的に五位以上の官僚を「貴族」、三位以上の官僚を「公卿(くぎょう)」と呼びます。

律令では位階に相当する官職が定められています。これを「官位相当制」と言います。実際の運用では、位階よりも低い官職に就くこともあれば、その逆もありました。また、位階をもらっているのに官職に就いていない者もいて、その場合は「散位(さんい)」と言います。

このように、官僚たちは実績を重ねて「位階」をあげ、その身分に見合った「官職」に就任し、それぞれの「官司」で働いていたのです。彼らが従事した「政務」と「儀式」については下記の記事も読まれてみてください。

菅原道真の場合

平安時代の著名な貴族・菅原道真は、藤原氏や源氏のような上流貴族ではなかったため低い位階から官僚人生をスタートさせましたが、並外れた教養と行政手腕により立身し、最終的には大臣の位にまで登り詰めました。道真のキャリアは地方国司から蔵人所まで幅も広く、律令国家における官僚制がよく分かります。

正六位下〜従五位上

位階上国司治部省中務省兵部省民部省式部省上国司
従五位上加賀権守
従五位下兵部少輔民部少輔式部少輔
文章博士
正六位上玄蕃助少内記
正六位下下野権少掾
年代867年871年874年877年883年
菅原道真の年譜(一部省略)

道真は式部省の管轄にある大学寮で優秀な成績を残したことで、学生の身のまま正六位下の位階を与えられたことから官僚人生がスタートします。最初に与えられた官職は、下野国の権少掾。掾は国司の三等官で、下野は大国に相当するため、従七位相当の官職でした。この場合の権官は実際には赴任しなかったときに与えられるものです。道真は引き続き京で学業に励みました。

難関の登用試験をパスした道真は、正六位上に位階を上げ、玄蕃助(二等官)に就任。玄蕃寮は治部省の下部組織で、寺院・僧尼・外国使節をつかさどる役所。漢詩が堪能だった道真は、ここで唐や新羅ら漢文を使う外国使節の接待役が期待されたのかもしれません。

つづいて、中務省に異動し少内記を務めます。中務省は8省の中で最も重要で、他の7省に対して高く位置づけられていました。少内記は四等官のサカンに相当し、詔勅や宣命の原稿を書く役で、文筆を得意とする者が任命されました。正七位上相当の官職です。

従五位下に位階をあげた道真は、兵部省や民部省で少輔(二等官)の職に就き、実績を重ねます。そして、式部省に異動して少輔に就くとともに大学寮の文章博士も兼任することになりました。文章博士はいまで言う大学教授で、大学寮では長官(頭)の次のポスト。他の博士よりも高い官職で、従五位下に相当します。学業で立身した道真にとっては、一つの大きな目標として目指していたポストではないでしょうか。

その後、従五位上にのぼり、加賀権守を兼任(赴任なし)。すでに貴族にも列し、順調な昇進を続ける道真。883年、39歳のことです。

従五位上〜従四位下

位階上国司蔵人所太政官京職式部省太政官春宮坊
従四位下左京大夫式部大輔左大弁春宮亮
正五位上
正五位下蔵人頭左中弁
従五位上讃岐守
年代886年891年892年893年
菅原道真の年譜(一部省略)

当時は文章経国思想が広まり、学業で優れた実績を残した人材は地方に赴任して善政を行うことを求められました。文章博士を務めるほどの道真も例外ではなく、守(長官)として讃岐へ下ります。地方で4年の任期を終えた道真はその後異例の昇進をとげていきます。

讃岐で正五位下に登った道真は帰京後、蔵人所の頭に就任。蔵人所は天皇の私設秘書機関で、その頭は側近中の側近と言えるでしょう。ときの天皇からその才能を愛され、密接な関係を築いていきます。中枢機関である太政官で左中弁を務めつつ、位階を一気に2つ登らせて従四位下へ。左京行政の大夫(長官)や式部省の大輔(次官)を歴任しました。特に式部省では、卿という長官がいるものの実質的なトップは大輔が務めることが習わしで、道真にもその職務が求められました。また、皇太子の家政機関である春宮坊の亮を兼任し、皇太子付きの家庭教師を務めました。これも道真の学才が評価された任官です。

この間、道真は太政官の参議に就任。参議は太政官の中でも意思決定会議に参加できる一握りのエリート。参議に就任すれば、位階が従三位に到達していなくても「公卿」に列することできました。

従四位下〜正一位

位階太政官(近衛府)大宰府贈官
正一位左大臣
太政大臣
従一位
正二位右大臣
従二位大宰権帥
正三位右大臣
従三位中納言権大納言
(右大将)
従四位下参議
年代893年895年897年899年901年923年993年
菅原道真の年譜(一部省略)

当時、藤原氏や源氏以外の貴族で参議にまでのぼることは稀なことでしたが、道真の昇進は止まりませんでした。従三位になり名実ともに公卿になった同日に中納言へ、さらに権大納言へ昇進します。権大納言は、大納言とほぼ同じ権限を与えられた権官です。このとき右大将にも兼任。右大将は右近衛府の大将(長官)で、大納言と兼官することが慣例になっていました。

さらに位階を進めた道真は、とうとう右大臣にまで登り詰めました。867年に任命された下野権少掾から数えて約30年、55歳にして人臣ナンバー2のポストに就いたのでした。中級貴族の家系だった道真がここまで立身したのも、彼自身の並外れた学才と行政手腕によるものでしょう。

しかし、従二位にあがった直後、一転して大宰府に左遷。大宰権帥は、全く権限のない閑職で、左遷された公卿を実質的に幽閉するためのポストでした。道真は、失意のまま大宰府で没します。

その後、道真は怨霊として京中に出没し、ときの天皇や貴族を悩ませるようになりました。怨霊となった道真を慰撫するため、贈官として右大臣に復職したあと、正一位を与えられ、左大臣・太政大臣につきました。死後とはいえ、道真は人臣最高の位階と官職に就いたのでした。

参考文献

  • 『新訂 官職要解』講談社学術文庫(1983年初版、1902年原本)
    著者:和田英松
  • 『菅原道真 学者政治家の栄光と没落』中公新書(2019年初版)
    著者:滝川幸司