備中国分尼寺|国分寺が伝える吉備地方の古代景観
国分寺の建立
735年から始まった疫病の蔓延を沈めるため、聖武天皇は大規模な写経事業や各国での仏像造立などを行い、仏法によって国の災いを鎮めようとしました。これを皮切りに、聖武天皇によって鎮護国家思想にもとづく仏教政策が始まります。その1つが国分寺建立の詔です。日本の諸国に僧寺と尼寺を1つずつ建立させ、拠り所とする経典の写経や転読を行わせて仏の加護を期待したのです。国分僧寺は「金光明最勝王経」を、国分尼寺は「法華経」を根本経典としたため、それぞれ「金光明四天王護国之寺」「法華滅罪之寺」と呼びます。この国分寺の建立は、聖武天皇自身よりも皇后の光明子が強く推進したようです。
備中国分尼寺
多くの国分僧寺が史跡指定され後継寺院のもと現在まで法灯を繋いでいるのに対して、国分尼寺は史跡指定が進んでいません。遺構の発見された国分尼寺は国分僧寺と隣接していることが多く、備中国分尼寺もその1つです。備中国は、国分僧寺の遺構が見つかっておらず伽藍配置について不明な点が多い一方で、国分尼寺の遺構は比較的良好な状態で残っていた珍しい例です。
多様な伽藍配置を取る国分僧寺に対して、国分尼寺の伽藍配置は塔を持たず、中門・金堂・講堂が一直線に並ぶことが特徴です。備中国分尼寺では、中門は基壇と見られる土の高まりが見られるのみですが、中門の南側にあった南大門跡では礎石の一部とともに南大門から延びる築地塀の土壇が残っていました。東西幅100m・南北長さ200m程の寺域が想定されています。
南門から北にまっすぐ進むと金堂跡です。桁行5間・梁間4間で20m✕13mの金堂が建っていたと想定されます。当時の位置を保っているとされる礎石が残っています。
金堂の右手には、鐘楼か経蔵と想定される小規模な方形の建物跡がありました。
また、金堂の北側裏手には講堂跡と思われる礎石が2つ残っています。土の高まりや礎石の大きさから、金堂とほぼ同じ大きさの講堂が建っていたようです。
南門の手前には、古代山陽道と見られる幅6mの道が東西に延びています。ここから東に500m程度向かうと、備中国分僧寺です。当時の遺構は礎石らしき巨石が残るのみで伽藍配置も定かではありませんが、江戸時代に建立された五重塔(重文)が旧官道沿いの景観に古代の趣を添えています。
基本情報
- 指定:国史跡「備中国分尼寺」「備中国分寺跡」
- 住所:岡山県総社市上林
- 施設:総社吉備路文化館(外部サイト)