出雲国府跡|風土記に記された古代地方都市の景観
平城宮跡や国分寺跡など、各地で史跡整備が進んだことで、私たちは奈良時代の建築物を具体的にイメージできるようになりました。とはいえ、それらは建物単体の復元にとどまっていて、奈良時代の都市像、特に地方都市の景観をイメージすることはまだまだ困難です。そんな中、風土記の記述を頼りにすることで、都市内に配置された個々の施設を辿ることのできる場所があります。それは出雲国意宇郡、いまの島根県松江市です。
出雲国風土記
713年、元明天皇の命令で風土記編纂の事業がスタートしました。各国の郡・郷の名称や由来、地誌や文化などを調査し、天皇に報告させるものです。全国60余の国々を対象に行われた事業でしたが、多くは別の文献の中に「●●国の風土記では、~~と記されている」などの記述(「逸文」と呼ばれる)が散見されるのみ。書物として写本が伝わったものはわずか5か国で、そのうち4か国は一部が欠損してしまっています。そんな中で、唯一、完本で残っているものが出雲国です。私たちは、出雲国風土記によって、奈良時代の出雲国についてほぼ全貌を知ることができるのです。
出雲国意宇郡
出雲国風土記の冒頭では、出雲国が9つの郡、62の郷からなっていることが記されています。当時の地方の行政区分は国>郡>郷となっていて、国はいくつかの郡で構成され、1つの郡は複数の郷で構成されていました。
出雲国の9つの郡のうち、先頭に記されているのが意宇郡(おうぐん)です。意宇郡内には11の郷があったとのこと。島根半島の形成について物語る「国引き神話」は、この意宇郡の条に書かれていて、国引きを終えた神が「おーえー」と叫んだことから「おう郡」と呼ぶようになったという地名由来も記載されています。
意宇郡の条の最後には「ここに国庁がある」と記載されています。国庁とは、中央から派遣された国司が政務を執る役所のこと。当時の出雲国にとって、意宇郡は行政の中心地(県庁所在地のようなもの)だったのです。
出雲国府跡
意宇郡内に国庁があることは風土記の記述によって分かっていましたが、具体的な場所は長らく特定できていませんでした。そんな中、いくつかの説にもとづいて発掘調査を行ったところ、建物跡や木簡・墨書土器などが発見されたことで国庁の位置が特定できました。現在、「出雲国府跡」として国史跡に指定されています。
ちなみに明確な定義はありませんが、「国庁」は儀式や政務を行う中心的な建物のことで、国庁の周辺に置かれた建物群(政務に関わる倉庫・厨・工房など)を「国衙」、国衙を取り巻くように計画的に形成された都市域(民家、寺院、市場など)を「国府」と言うのが一般的です。
山代郷正倉跡
出雲国庁に隣接して意宇郡の郡家(郡を管理する一族の家)も置かれていたことが風土記に記されています。家と言っても、政務機能をもつ役所のことです。風土記では、この意宇郡家を中心にして各郷までの距離を記載しています。
例えば、意宇郡家から西北3里120歩のところには山代郷がありました。当時の尺度をざっくり1里=500mとすると、国庁から2km弱のところでしょうか。山代日子命(やましろひこのみこと)が鎮座しているからというのが郷名の由来として書かれていますが、国庁から見て茶臼山の後ろ側、つまり山背にあったため「やましろ」と呼ばれていた地区の神を「やましろの神」と呼ぶようになったというのが正しい順番でしょう。
山代郷には「正倉がある」と記されており、そのことを示すように炭化米とともに総柱建物跡が発見されました。現在は柱の根元部分が設置されているだけですが、おそらく高床式校倉造の倉庫が並んでいたことでしょう。
倉庫群の中央には管理棟のような建物跡も発見されています。
山代郷北新造院跡
山代郷にはさらに「郡家から西北4里200歩に新造院があった」と書かれています。郡家から2.5km程度のところでしょうか。「新造院」とは「新しく造った寺」という意味で、まだ寺院名称がなかったためにそのような記載になったようです。「堂はあるが、僧は常住していない。日置君目烈が創建した」とあります。奈良時代の地方寺院でここまで具体的なことがわかる事例は非常に貴重です。日置君目烈(ひおきのきみめづら)は祭祀に関わる地方豪族だと見られます。
北新造院の伽藍は、丘陵の南側斜面に張り付くように造営されています。やや高いところに金堂があり、その両脇に塔が配置され、そこから1段下がったところに講堂と見られる大型の建物があったようです。
山代郷には、目烈が造った新造院の他に出雲臣弟山(いずものおみおとやま)が造った新造院があり、そちらは南新造院として島根県指定史跡となっています。
出雲国分寺跡
寺院で忘れてならないのが国分寺です。出雲国分寺は国庁から北東に向けて1km程度のところに築かれました。国分寺の建立事業は741年から開始したため、733年に完成した出雲国風土記には国分寺のことは記されていません。
南門、中門、金堂、講堂、僧房が一直線に並び、中門と講堂を結ぶ回廊が伸びていました。出雲国分寺では、回廊の外側に塔が建つ東大寺式伽藍です。寺域の西側は民家によって侵食されていますが、中心から東側にかけては良好に残っています。
多くの都市が国府と国分寺くらいしか史跡指定されていない中で、出雲においては国庁、倉庫、地方寺院など、地方都市を形成する複数の建造物跡が国史跡となっています。これらは、出雲国風土記による裏付けがあり、建立した地方豪族の名前まで明らかになっているのです。個々の建物は復元こそされていませんが、実際に現地で辿ってみることで具体的な都市景観をイメージすることができるのではないでしょうか。
基本情報
- 指定:国史跡「出雲国府跡」「出雲国山代郷遺跡群」「出雲国分寺跡」
- 住所:島根県松江市大草町 外
- 施設:八雲立つ風土記の丘展示学習館(外部サイト)