後期難波宮|聖武天皇が再建した副都。藤原式家との奇妙な関係とは?
難波宮が再建されるまでの経緯
飛鳥時代、孝徳天皇は大阪の上町台地の北端に王宮(前期難波宮)を造り、そこを都としました。次代の斉明天皇によって都は再び飛鳥に戻りますが、難波宮の施設自体はその後も存続していたようで、外国から来た使節の饗応に利用されたそうです。
この難波宮に再び目をつけた天武天皇は683年に「都城は一か所ではなく、必ず複数か所あるべきだ。先ずは難波を都としたい。」と詔し、浄御原宮(きよみはらのみや)があった飛鳥に加え、すでに難波宮を有していた難波を副都として位置付け直すことにしたのです。
参考記事
前期難波宮|孝徳天皇の長柄豊碕宮。大阪"難波"で始まる律令国家への第一歩
難波宮跡は大阪府大阪市にある国史跡。2層から成る遺跡で、下層は飛鳥時代に孝徳天皇が築いた難波長柄豊碕宮(前期難波宮)の遺構です。広大な朝庭と14棟の朝堂から成る朝堂院が特徴で、孝徳天皇が目指した律令国家・日本の象徴となりました。
しかし、そのわすが3年後の686年1月、宮室からの出火で難波宮は一部の官衙を残して焼失してしまいました。この大火事の痕跡は発掘調査でも見つかっています。火災直後は一体どのような光景だったのでしょうか。706年9月に天武天皇の孫・文武天皇が難波に行幸した記録が残っていますが、焼けた柱の根本などは残ったままだったのではないか、と考えられています。
こうした難波宮の悲惨な状況を憂えた聖武天皇は、曽祖父にあたる天武天皇の遺志を引き継ぎ難波宮の再建に乗り出します。726年、再建の責任者に指名されたのは藤原宇合(うまかい)。彼は藤原不比等(ふひと)の4人の息子うちの1人で、遣唐使として渡唐の経験があるほか、蝦夷・隼人を征討するため軍を率いて文字どおり東奔西走し、漢詩の才もあるなど、文武ともに秀でており、多方面で活躍しました。長く式部卿を務めたことから彼の一族は後に「式家」と呼ばれるようになります。
再建された王宮"後期難波宮"
孝徳天皇によって飛鳥時代に造営された難波宮を「前期難波宮」と呼ぶのに対して、聖武天皇によって奈良時代に再建された難波宮を「後期難波宮」と呼びます。遺跡は公園として保存されており、「前期」が赤系色の舗装、「後期」が灰系色の舗装で分けて地上表示されています。
灰系色の舗装がなされた塀跡に沿って北に進むと、公園の中でひときわ存在感のある大極殿基壇跡にたどり着きます。大極殿は天皇が御する高御座の置かれた建物で、宮の中で最も重要な施設でした。「後期難波宮」ではこの大極殿が大極殿院という公的なエリアに独立して建設されているのが特徴です。「前期」では内裏という天皇の私的なエリアに建てられていて、天皇の威儀を示すには不十分な配置だったのです。
大極殿の基壇に登り南側を振り返ると、そこには広大な朝堂院が広がっています。朝堂院は上級官人たちの執務エリアで、位によって決まった朝堂に座するようになっていました。朝堂院の規模は「前期」から「後期」で縮小してしまい、朝堂の棟数も12棟から8棟に減少しました。現地ではこのうち東側で2棟、西側で3棟が表示されています。
しかし各棟の大きさは「後期」の方が大きく、掘立柱建物から礎石立建物へ一新されました。大極殿も含め「後期」の建物はすべて屋根に瓦が葺かれましたが、重圏文の軒瓦が「後期」の特徴です。
大極殿から北のエリアは内裏で、これは「前期」の内裏と重なっています。いまでは道路が突き抜けており遺構の表示はありません。
732年、知造難波宮事であった藤原宇合に褒賞が贈られたという記録が残っています。難波宮の再建はこの頃には一通り完了していたようです。
難波宮と藤原式家との奇妙な関係
藤原宇合の「式家」とは因縁があったのか、難波宮の歴史にはなにかと彼ら一族が登場します。最初の関わりはもちろん初代宇合が王宮を再建したときですが、次は難波が再び首都となったときです。これには宇合の子・広嗣(ひろつぐ)が関わっていました。
740年、広嗣は大宰府に左遷されたことに不満を募らせ、九州で乱を起こしました(藤原広嗣の乱)。征討軍によって広嗣はあっけなく討取られてしまうのですが、聖武天皇はこの反乱を機に平城京を抜け出し、5年に及ぶ放浪生活に入ってしまいます。この間に、恭仁(740年)→難波(744年)→紫香楽(745年)→平城(745年)と、目まぐるしいほどに遷都が行われ、難波はわずか10ヶ月程度ですが首都になるのです。
そして難波宮が廃絶するときにも藤原式家が関わってきます。奈良時代末に桓武天皇によって遷都した長岡宮跡からは、難波宮と同じ重圏文の軒瓦が多く出土しています。これは、長岡宮の造営に際して建物の多くは難波宮のものを移築して利用したからです。長岡宮の大極殿は藤原宇合が造った後期難波宮の大極殿だったわけです。
実は、この長岡宮の造営を指揮したのは藤原種継(たねつぐ)という人物で、彼は宇合の孫でした。難波宮を再建した式家初代の宇合、首都復活のきっかけをつくった2台目の広嗣、そして長岡への移築・廃絶を指揮した3代目の種継。後期難波宮は再建から廃絶まで藤原式家と奇妙な関係を持ち続けたのでした。
参考記事
長岡宮跡|桓武天皇の最初の王宮。平城京から平安京へ遷都した理由とは?
長岡宮跡は京都府向日市の国史跡。奈良時代末期の長岡京の王宮跡です。朝堂や大極殿の遺構が見つかりました。794年に桓武天皇が平安京へ遷都したため、長岡京はわずか10年で廃都となってしまいます。
基本情報
- 指定:国史跡「難波宮跡」
- 住所:大阪府大阪市中央区大手前
- 施設:大阪歴史博物館(外部サイト)