斎場御嶽|第二尚氏時代の祭祀空間。尚真が整備した琉球国の神女組織とは?

尚真王が行った神女組織の整備

14世紀までの沖縄諸島は「按司(あじ)」と呼ばれる地域首長がグスクを居城にして地方を支配するグスク時代でした。やがて各地の按司は3つのまとまりに収斂していき、三国が鼎立する三山時代に入ります。これを琉球国として統一したのが尚思紹(しょうししょう)という人物でした(第一尚氏王統)。しかし、この王統はわずか60年で途絶え、代わって金丸(かねまる)という人物が琉球国王に擁立されます。金丸は尚円(しょうえん))と名乗り、第二尚氏王統を打ち立てました。1469年のことです。

第3代国王の尚真(しょうしん)は、第一尚氏王統と同じ轍を踏まないよう、王権の基盤を整えていきます。各地の按司を序列化する位階制を新設したり、事務機構である官僚制を定めたりなど、国王を頂点とする統治体制を整備しました。それにともない、祭祀体制も改革を行います。

古来より、沖縄諸島では祭祀に携わる者は女性と決まっていました。尚真はこの神女たちの組織体制の整備に手をつけました。まず、各地域の祭祀を統括する役職として「ノロ」を置き、これに地元の女性を任命しました。さらに、いくつかのノロを束ねる役職として「大阿母(おおあも)」を置くことで祭祀の地方組織を整備します。さらに、中央神女職として「君」を置き、地方祭祀の統括する職務を与えました。そして、この地方-中央の神女組織の頂点に「聞得大君(きこえのおおきみ)」を置きました。

尚真は、ノロ-大阿母-君-聞得大君の職に就く女性を国王自らが任命することで、国内の祭祀のすべてを統治しようとしたのです。特に、聞得大君には国王の近親の女性を任命しました。初代の聞得大君は、尚真の妹、オトチトノモイカネです。

聞得大君の就任儀式は「御新下り(おあらおり)」と呼ばれます。大君自らが、君やノロを率いて首里城から知念半島まで向かい、琉球国で最高位の聖地「斎場御嶽(せーふぁうたき)」で就任儀式を執り行いました。

聞得大君の就任儀式が執り行われた祭祀空間

御嶽(うたき)とは、沖縄諸島の言葉で「聖地」のことです。「斎場御嶽」は「最高位の聖地」といった意味で、琉球神話では創成神アマミキヨが創った場所として語り継がれています。琉球石灰岩の奇岩が織りなす空間は、伝説を目の当たりにするかのような神秘的な雰囲気をまとっています。

斎場御嶽|がんじゅう駅・南城から撮影
正面の小高い丘が斎場御嶽。琉球石灰岩の露頭が見える山頂は、イビの1つである三庫理。

御門口(うじょうぐち)から先は、女性しか入ることを許されなかった神聖な空間でした。現代は男女の別なく入ることができますが、当時は国王と言えども女性の衣装をまとってしか入ることができませんでした。

御門口
ここから先は神聖な場所・琉球石灰岩の石畳が敷かれている。看板の下の置かれている6つの香炉は、御嶽内の6つのイビの分身とされている。

御嶽内部には6つの「イビ」があります。イビとは「神聖な場所」のことで、主な拝所を指します。御新下りでも聞得大君は順にイビを巡っていきました。1つ目は「大庫理(ウフグーイ)」です。琉球石灰岩の巨岩の前面には、ウナーとして石畳が敷かれています。ウナーとは祈りの場のことです。

大庫理
琉球石灰岩の巨岩に向かって石畳が敷かれ、香炉も置かれている。

この巨岩の反対側には「寄満(ユインチ)」という2つ目のイビがあります。寄満とは台所という意味ですが、ここで調理が行われたわけではなく、「琉球国が豊穣の満ちた国になるよう」祈った場所でしょう。

寄満
大庫理の巨岩の反対側。

「アマダユルアシカヌビー」「シキヨダユルアマガヌビー」と呼ばれるイビは、鍾乳石から滴り落ちる聖なる水を受け止めるために2つの壺が置かれた場所です。聞得大君には、シキヨダユルアマガヌビーの壺の水で「御水撫で」が行われました。

貴婦人御休み所・2本の鍾乳石
左手の石畳は「貴婦人御休み所」。右手では2本の鍾乳石から落ちる水滴を壺で受け止めている。
アマダユルアシカヌビー・シキヨダユルアマガヌビー
奥側の壺がシキヨダユルアマガヌビー。

ここの2つの巨岩が織りなす光景は独特です。左手の倒れ掛かった岩によって形成された三角形の洞門の突き当りの壁面に「三庫理(サングーイ)」と呼ばれる5つ目のイビがあり、垂直の岩壁(写真右手の巨岩)に沿って6つ目のイビ「チョウノハナ」があります。現在は洞門を潜ることはできませんが、突き当りを左に曲がると久高島(くだがじま)を遥拝できる場所もあるそうです。

三庫理・チョウノハナ
もともとは1つ石灰岩の巨岩だったものが、雨水が染み込み亀裂が入ったあと左手の岩がずり下がった見られる。

琉球建国の前から続く琉球の祭祀

斎場御嶽では弥生時代に相当する時代の遺物も出土しており、古来からこの場所が祭祀の空間であったことが想定されています。沖縄諸島では古くから太陽信仰が盛んで、久高島の東方には「ニライカナイ」と呼ばれる聖地があり、そこで太陽が生まれると信じられてきました。これを「ニライカナイ信仰」とも呼びます。

久高島|御門口より東側を撮影

やがて「琉球国王は太陽神の末裔である」とする思想が浸透し、王は「てだ(太陽神)」とか「てだこ(太陽の子)」と呼ばれるようになります。これを「太陽子思想」と呼んだりもします。

三庫理出土品|がんじゅう駅・南城(複製品)
三庫理から出土した勾玉と厭勝銭。ともに金製の実物は重文に指定されている。

この太陽子思想は第一尚氏王統の時代から広がりはじめ、第二尚氏王統の尚真か、その息子・尚清(しょうせい)のときに定着したと見られています。「てだ」とされる国王の一族、第二尚氏王統はその後400年間にわたり琉球国王として君臨し続けました。その礎となった数々の政策の1つが、尚真の時代に行われれた神女組織の整備だったのです。

基本情報

  • 指定:国史跡「斎場御嶽」・世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」
  • 住所:沖縄県南城市知念久手堅
  • 施設:緑の館「せーふぁ」