安土城|織田信長が築いた最後の城郭。信長は"天正"の時代をどう戦ったか?

信長にとっての"天正"という時代

元亀4年(1573)7月、足利義昭を京都から追放した織田信長は、朝廷に改元を要請しました。さっそく同月27日には改元が行われ、「天正(てんしょう)」という時代が始まります。この元号は、数ある案の中から信長自身が選んだものと言われます。「天下布武」を掲げて後に「天主」とも称するようになる信長にとって、「天正」の元号には特に魅力を感じたのかもしれません。

20年間続いた「天正」のうち信長は前半10年を生きますが、その間は戦争づくめでした。改元の翌月である天正元年(1573)8月には朝倉義景を滅ぼし(一乗谷城の戦い)、その翌9月には浅井久政・長政父子を滅ぼして(小谷城の戦い)、北近江を平定します。その後、天正2年(1574)9月に長島の一向一揆をせん滅、天正3年(1575)5月に武田勝頼に大打撃を与え(長篠の戦い)、同年8月には越前の一向一揆をせん滅しました。

尾張・岐阜に加えて、近江・越前に領土を広げ、東側の憂いをも絶った信長は、天正4年(1576)1月、琵琶湖湖畔に接する標高198mの安土山に城を築くことにしました。この地を選定したのは、京都にも近く(馬で1日)、東海道沿いにあり、琵琶湖の湖上輸送を支配できるなど、交通・輸送の要衝であったためですが、一番の理由は、天正4年(1576)時点の信長の版図では安土が中心だったからです。京都の西側では、石山本願寺がなおも抵抗を続けており、岐阜城から安土城に移った信長は、西国を平定するためにまずは石山本願寺と対決する必要がありました。

信長が築いた安土城、その実態

安土城周辺の景観は当時と現在では大きく異なります。いま田畑が広がっている場所は、かつて「西ノ湖」「内湖」と呼ばれた湖が広がっていました。当時の城下町は、現在も市街地を形成している場所と重なります。JR安土駅から県道199号線に沿って北に向かう道の周辺が当時の中心地で、この道は安土城の百々橋口に繋がります。この入口が当時のメインゲートでした。

下豊浦北交差点|南から北を撮影
安土城下町の中心地。安土城の廃城後は近江八幡城へ町ごと移転された。
百々橋口
当時の主要登城口だと想定されている。石段や石塁は後世の積み直し。

百々橋口から山裾を東へ回り込むと、現在の入城ゲートに到着します。ここから(伝)大手道をまっすぐに登っていくのが通常の見学ルートですが、今回は先ほどの百々橋口から登城するルートを想定して辿っていきましょう。

安土城|安土城考古博物館(模型)
安土山の南側には内湖、西側には西ノ湖があった。集落は山の南西側に形成されており、築城後はここが城下町となった。

石段を登っていくと、摠見寺の境内に入ります。この寺は築城当時からあったと言われ、信長が甲賀から移築したとされる仁王門と三重塔が現存しています。城内に寺院伽藍が建立された事例は後にも先にも安土城だけらしく、信長が登城ルート上に伽藍を配置した理由も分かっていません。

摠見寺仁王門■国重文・室町時代
摠見寺三重塔■国重文・室町時代

摠見寺を通過すると、やがて(伝)黒鉄門に到着します。近世城郭で見慣れてしまった石垣による桝形虎口も、この安土城の伝黒鉄門が最初とも言われます。以降、城郭の軍事機能を象徴する部分として多くの城で取り入れられていきました。

伝黒鉄門
記録に残る「表の御門」と想定される門で、城内の主要部に至る。石垣は後世の積み直しだが、厳重な外桝形を形成していた。

伝黒鉄門から内部が安土城の主要部になります。いくつかの門を通過すると分岐点にぶつかりますが、この地点は縄張りの最も複雑な部分です。正面の高石垣は天主台のもので、これに沿って右手に進むと、(伝)本丸に至ります。

櫓門跡
伝二の丸石垣(左手)と櫓台石垣(右手)を渡す櫓門があったと想定されている。
天主台
天主台の石垣は築城当時のものと想定されている。右手に行けば伝本丸。

伝本丸には巨大な御殿の痕跡が発見されました。当時の記録で「南殿」「御幸の間」などと呼ばれた施設の遺構だと見られています。

伝本丸|西側から東側を撮影
南殿や御幸の間と呼ばれる御殿が建っていたと想定される。写真奥の石垣は伝三の丸のもの。

伝本丸には先ほど通過した西門の他に、(伝)台所とつながる東門と、主要部の外部とつながる南門がありました。本丸には3つの門から中に入ることができたのです。(残念ながら、これら2つの門は現在通行止め)

伝本丸東門
天主取付台石垣(左手)と伝三の丸石垣の間の門。両石垣を渡す櫓門が想定されている。
伝本丸南門
左手の石垣は伝三の丸のもの。右手は主要部の外。

伝本丸の東側にある石垣は(伝)三の丸のものです。現在は伝三の丸に登ることができませんが、当時の記録で「江雲寺御殿」と呼ばれる建物が建っていたと想定されています。ここ伝本丸からは階段で、北側の天主取付台からは櫓門の2階部分で接続していたと見られています。

天主取付台階段|天主取付台上から撮影
写真右手の広場が伝本丸。その奥の石垣が伝三の丸石垣。

天主取付台から天主台へ登ると、天主閣の礎石が残っています。ここは天主閣の地下部分で、周囲の石垣はいまよりももっと高かったそうです。どのような意匠の天主閣が建っていたのかは論争が続いており、様々な復元案が提示されています。

天主台階段
天主閣礎石

天主台石垣の上に立つとわずかに琵琶湖を遠望できますが、信長は五層六階の天主閣の上からはるか遠くまで眺めることができました。京都から西の各国をどのように平定していくか、いろいろと考えを巡らしていたことでしょう。

琵琶湖方面|天主台石垣上から西側を撮影
かつては西ノ湖があり、琵琶湖へとつながっていたが、いまは埋め立てられている。

さて、この天主台石垣の上からは(伝)二の丸を見下ろすことができます。先ほどの分岐点から左手の石段を登ると伝二の丸だったのですが、ここには秀吉が建立したとされる信長廟があります。伝二の丸は伝本丸より高い位置にある点や、秀吉がこの場所に信長の墓を建てた点などを理由に、信長やその家族が居所としていた御殿は伝二の丸にあったのではないかと想定されています。この伝二の丸の御殿と天主閣は階段で接続していたとも考えられています。

伝二の丸信長廟|天主台上から撮影
信長の日常の居所となる御殿があったと想定されている。伝二の丸と天主閣は階段でつながっていたようだ。

さて、安土城主要部を見終わった後は、見学ルートを下っていきます。伝黒鉄門から伝大手道に向かって下っていくわけですが、実は、伝大手道は伝黒鉄門ではなく伝本丸南門と繋がっていたのではないかする説があります。いまも論争が続いている部分で、今後の発掘成果が待たれます。

安土城主要部|安土城考古博物館(模型)

いくつかの屈曲部を抜けると視界が開け、有名な伝大手道の直線部分に至ります。前述のとおり、ここから見える山裾部分は当時は内湖の湖面でした。つまり伝大手道は城下町と直接つながってはいなかったのです。そういう目で見ると、この道の役割が少し違って見えるのではないでしょうか。

伝大手道|石段の上から下(南側)を撮影
大手道下にはかつての内湖が広がっていたが、埋め立てられた。

伝大手道沿いには石垣が築かれ、(伝)徳川家康邸、(伝)前田利家邸、(伝)羽柴秀吉邸など呼ばれる屋敷跡が見られます。伝羽柴秀吉邸跡では詳細な発掘調査が行われており、屋敷の復元案も出ています。

伝羽柴秀吉邸跡(上段)|東側から西側を撮影
写真奥が伝大手道。
伝羽柴秀吉邸跡(下段)|東側から西側を撮影
写真奥が伝大手道。

これらの屋敷跡の名称については、安土城が築かれた100年後の江戸時代の古図を元にした伝承であり、当時本当に秀吉たちの屋敷があったのかは分かっていません。

伝羽柴秀吉邸|安土城考古博物館(復元模型)
下段の曲輪は厩、上段は正殿とされている。大手道沿いに隅櫓を配置していたと想定されている。

伝大手道を下りきると、伝大手門跡です。見過ごしてしまいそうですが、ここにも石垣の門がありました。発掘の結果、ここでは4つの入口が並列した造りになっていたことが分かりました。

西虎口1
最も西側に配置された入口で、桝形を形成していた。

このような造りの門は前代未聞であり、どういう役割をしていのかはもちろん謎です。現在は、石垣が積み直され、一部が復元されています。

西虎口2
西から2番目に配置された入口。
東虎口
最も東側に配置された入口。

信長の最期と"天正"のその後

築城は山頂の主要部から急ピッチで進められたのか、天正4年(1576)2月には早くも信長が安土城に入っています。4月には天主閣の曲輪ができ、その後、作事が進められ、天正7年(1579)5月に天主閣が完成したようです。

安土城を拠点にした信長は引き続き天下統一を進めていきます。天正7年(1579)10月には丹後・丹波を平定し、天正8年(1580)3月に石山本願寺を降伏させることができました。ちなみに、天正9年(1581)9月、安土城の築城に携わった者たちへ褒美を与えていることから、この頃には城が完成したものと見られます。

そして、天正10年(1582)3月には武田勝頼を滅ぼして、信濃と甲斐を完全に手中に治めました。この年、信長が天皇の安土城行幸を計画していたと、朝廷側の記録に残っています。安土城行幸の計画は天正5年(1577)にもあったそうで、伝本丸の御殿は天皇のためのものだったと想定されています。また、伝大手道も行幸のために敷設された道とする説があり、城下町と繋がっていない理由などもそのあたりにあるのかもしれません。

伝大手道|石段の下から上(北側)を撮影
伝大手道|安土城考古博物館(復元模型)

しかし、この行幸は実現しませんでした。それは、信長が天正10年(1582)6月に明智光秀に討たれてしまうからです。中国地方の平定に当たっていた秀吉は、すぐさま京に上って明智光秀を滅ぼし、その後の清須会議で、信長の孫・三法師をかついで信長の後継者として振舞うようになります。清州会議では、三法師が安土城に入ることで決まり、天正11年(1583)1月に入城しまさした。伝大手道周辺の屋敷地はこのときに整備されたものだとする説もあります。

信長が天下統一を目指して戦い抜いた天正の前半10年と同様、後半10年を引き継いだ秀吉も戦争にまみれ、ようやく天正18年(1590)に天下統一を成し遂げました。天正19年(1591)には関白職を譲って太閤となり、秀吉の天下が確立します。天正20年(1592)にはすっかり「天下静謐」成った日本国を飛び出し、朝鮮半島への出陣が始まりました。この年、「天正」から「文禄」へと改元がなされます。

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