肥前国庁跡|律令制を象徴した国府の中心施設。衰退をもたらした"受領"とはなにか?

中央集権体制を背負って地方に赴任した国司たち
大宝律令が制定され(701年)、日本の地方各国に国司が派遣されることになりました。これまでは、その地に根付く有力な豪族が国造(くにのみやつこ)として地方を統治していましたが、今後は、都から派遣された中央貴族が国司として統治することになりました。国司(こくし)は「クニノミコトモチ」とも呼ばれ、天皇の言葉(みこと)を地方にもたらし、彼ら在地豪族たちを服属させ、中央集権体制を行き渡らせる使命を負っていました。
その国司が、政務の拠点とした場所を「国府」と呼びます。国府は、国庁、曹司、国司館、正倉院、厨、駅家、国府津など、国務に関わる一連の施設群から構成され、奈良時代後半には、国府近隣に国分寺や国分尼寺が建立されました。国府は、地方社会において、政治(国庁・曹司)、文化(国分寺)、経済(市場)、流通(正倉院、国府津、駅家)の中心となりました。
ところで、国造として地方に君臨していた地方豪族は国司の派遣以後どうなったのでしょうか。彼らは郡司に任命され、国司を頂点とする地方行政機構に組み込まれていきました。この頃の地方社会は、国の中にいくつかの郡(こおり)をおき、さらに郡の中に里(さと)を置く、という3階層の行政区画に分かれていました。郡司とは、この真ん中の郡を統治する官職です。都から中央貴族が派遣されてきたとはいえ、彼ら国司は地方の隅々まで掌握できていたわけではなく、郡司の支配力に依存するところが大きかったというのが実情でした。彼ら地方豪族は、これまでとは支配領域は狭まるものの、引き続き地域社会に君臨する存在でした。
しかし、8世紀(700年代)をとおして国司の支配力は徐々に郡司を凌駕していくようになります。それは、出自が重視された郡司の採用方法が、才能を重視する方向に変化してきたからです。血筋がよくとも才能のない豪族たちは淘汰され、文筆や計算など実務能力の高い人物が郡司に採用されるようになったのです。1世紀を経て、在地豪族の支配力に頼らずとも、国司のもと実務を円滑に処理することで郡内の統治が可能になってきたということでもあります。こうして、国司は権限を強化していき、その最盛期を平安時代前期(9世紀前半)に迎えます。
最盛期を迎えた平安時代前期の肥前国庁
平安時代前期の国庁の様子を「肥前国庁跡」で見てみましょう。国庁は、国府の中で最も中心的な施設で、儀式・政務・饗宴などが行われました。8世紀初めから、国庁は規模を拡大し威容を整えながら、9世紀前半に最盛期を迎えます。肥前国庁跡では、この最盛期の様子に復元整備されています。

広場を中心に正殿や脇殿をコの字型に配置する規格は全国で見られる。平城宮や平安宮を模したものだと想定される。
政庁の南門は格式の高い八脚門です。国庁の門は「公門」と位置付けられ、律令でも他の門とは別格に扱われました。ここから内側には一切の穢れを持ち込んではならず、政庁内を神聖な空間のまま維持しなければなりませんでした。

出土した瓦の色にもとづいて復元された。当時は窯の温度を保つ技術が未熟だったため瓦色が安定しなかったという。
南門の両脇からは築地塀が伸び、国庁全体を囲っていました。その規模は、横(東西)80m、縦(南北)100mです。

南門から伸びる築地塀が政庁全体を取り囲んでいた。南側の一部が復元され、残りは生垣が巡る。
南門をくぐると、左右(東西)に脇殿が南北に2棟ずつ計4棟建っていました。脇殿は官人たちの控え室や執務室だったと想定されています。


南門の正面には広場があり、その奥に前殿・正殿・後殿が建っていました。広場を中心に、正殿と脇殿がコの字型に配置される規格は、全国の政庁遺跡で見られ、当時ほぼ統一された規格だったと想定されています。

この広場と前殿・正殿では、国司が主催する様々な儀式や饗宴が行われました。特に元日の儀式は、郡司も列席し、都の方を向いて天皇への服属を誓う重要なものでした。

脇殿や正殿・前殿の建物はもともと掘立柱建物でしたが、最盛期には礎石立建物に様変わりしました。正殿には翼廊も取り付き、荘厳さを増していました。この建物こそが、律令による中央集権制を象徴する施設だったのです。

前殿の後ろには、後殿が控えています。生垣で表現された築地塀の外側では、正倉院跡や国司館跡と見られる遺跡も見つかっており、肥前国府の広がりが明らかになってきています。国府はすぐ北側に山を配することが多いのですが、肥前国府も例外ではありません。北側に平城山(ならやま)が位置する平城宮を模倣しているのでしょう。

背後の生垣は築地塀跡を表示。その奥には脊振山系の山並みが広がる。
肥前国の政庁がこうした立派な施設として存続したのは、実は平安時代前期(800年代)だけでした。平安時代中期(10世紀)になると規模が縮小し、建物は掘柱建物に戻り、政庁の機能を失っていったようです。10世紀末には廃絶したと見られています。

出土品(奥)にもとづいた復元品(手前)。
受領の登場が引き起こした政庁の衰退
実はこうした政庁の衰退は肥前国だけではなく、他の地方でも同じ時期に同じような経過を辿るそうです。これは、全国一律に地方政治が変わったことを示しています。平安時代中期の地方でいったい何が起こっていたのでしょうか?
それは受領国司(単に「受領」とも。)の誕生です。受領(ずりょう)とは地方行政の全権限を一任された国司のことです。本来、国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の4等官の総称で、これら4つの官職に就いた貴族たちが共同責任のもと政務を行なっていました。この共同責任体制が変わり、守(長官職)が全権限を握るようになり、「受領国司」と呼ばれはじめるのです。
守以外の介・掾・目は名目だけの官職になり、やがて現地への赴任すらなくなってしまいます。受領は、引き連れてきた郎等たちに政務を補佐させるとともに、郡司に変わって力をつけてきた富豪層を在庁官人として採用し実務を担わせました。こうした背景から、地方行政の実際の政務は、政庁ではなく国司館(受領の居所)で行われるようになり、この国司館が国府の中心になっていきます。
政庁がすっかり衰退した平安時代中期の肥前国で受領として赴任してきたのが、平維将(これまさ)です。維将は盗賊の追討に功があって肥前守に任命されたという、当時の典型的な軍事貴族でした。軍事貴族とは平将門の乱・藤原純友の乱などの大規模な内乱を鎮圧した貴族の末裔たちで、中級貴族に分類されます。摂関家を筆頭とする上級貴族に経済的な奉仕を行うことで彼らの後ろ盾を獲得し、各国の受領を渡り歩くようになりました。維将もそうした軍事貴族の1人です。ちなみに、維将の義理の姪にあたる人物に紫式部がいます。維将が肥前国の受領として赴任したちょうど同じ頃、紫式部も、受領となって現地に赴任した父とともに越前国にいました。
また、維将の甥にあたる平為賢は、肥前を襲った「刀伊の入寇」で武功をあげ、肥前守に任じられました。彼もまた軍事貴族で受領になった人物の1人です。為賢の一族は肥前国に土着し、やがて肥前国内に勢力を有する武士団へと成長していきます。平安時代後期から末期にかけて登場してくる武士たちは、受領として在国した軍事貴族を祖とし、その国に土着した一族だったのです。各国の政庁が象徴した中央集権体制は彼ら武士によって根底から揺さぶられ、地方社会は中世へと移っていくのです。
基本情報
- 指定:国史跡「肥前国庁跡」
- 住所:佐賀県佐賀市大和町大字久池井
- 施設:肥前国庁跡資料館(外部サイト)

