飛鳥池工房遺跡|最古の鋳造貨幣と天皇号木簡が出土した飛鳥時代の官営工房
飛鳥時代に朝廷が運営した大規模工房
飛鳥宮跡の北東隅に接する小丘陵に飛鳥池工房遺跡という遺跡があります。その名のとおり飛鳥時代の工房の跡です。現在は万葉文化館が建っていますが、以前は飛鳥池と呼ばれる江戸時代からの溜池があり、万葉文化館の建設にあたり池を発掘したところ飛鳥時代の大規模な工房跡が発見されたのです。この工房は斉明天皇の頃から操業がスタートし、天武天皇のときに最も活発に運営されたと見られています。
飛鳥池工房の敷地は南側から延びる二本の丘陵の谷部に形成されていて、大きく南区(上段)と北区(下段)に分かれています。上段にあたる南区では多数の炉跡が発見され、工房内の作業場だったと考えられています。
ここで生じた廃液が流れ出さないように水溜(みずだめ)も設けられていたようです。水溜と水溜の間は陸橋が渡され、歩けるようになっていたと想定されています。
下段にあたる北区ではいくつかの掘立柱建物の遺構が発見され、工房内の事務機関が置かれた場所と想定されています。
南区からの排水を一時的に受け止めたと見られる方形池も発見されました。ここからさらに北側へ排水していたと見られます。
南区と北区の間には塀と堤が築かれていましたが、これらは南区で生じた廃棄物が北区に流れないように堰き止めるため役割があったと考えられています。この廃棄物の堆積層から様々なものが出土しました。出土物からここで何が生産されていたか分かってきました。
ガラス発祥の地・飛鳥池工房
ここで生産されていた代表的なものはガラス製品です。日本のガラスの歴史は弥生時代から始まりますが、当時は輸入品でした。古墳時代には輸入ガラスを二次加工するようになりますが、ガラス原料の製造が始まるのは飛鳥時代になってからでした。
ガラスを原料から製造するには鉛と石灰を混ぜて1300度以上の高温で溶解するための高い技術力が必要で、朝鮮半島での戦乱を機に多くの百済系技術者が日本に移住してきたことでようやく可能になりました。飛鳥池工房遺跡からはガラス原料である鉛と石灰の塊が出土しているほか、製造に使われた坩堝(るつぼ)や鞴(ふいご)も発見されています。日本の本格的なガラス製造は飛鳥池工房から始まったのです。
ガラスは小玉などの宝飾品に加工されたようで、小玉の鋳型も出土しています。ただ熱せられたガラスは非常に粘性が高いために坩堝から鋳型に直接流し込むことは不可能に近いとのことで、固まったガラスを一度粉砕し鋳型に詰めて再溶解することで成型したと想定されています。
そのほか、漆製品や金属製品も出土しています。金属製品では純度の高い金製品や精巧な銅製品が発見され、仏教関連の施設に使用されたと考えられています。
出土した最古の鋳造貨幣「富本銭」と天皇号木簡
飛鳥池工房遺跡では「富本銭」の鋳型や鋳棹が発見されました。富本銭は「和同開珎(708年発行)」より以前にさかのぼる最古の鋳造貨幣と考えられています。日本書紀には天武天皇12年(683年)に「今後は必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いてはならぬ」という詔があったことが記されていて、この銅銭こそが「富本銭」で、天武天皇のもと飛鳥池工房で鋳造されたと想定されているのです。
天武天皇に関わるものでさらに貴重な出土物が「天皇号木簡」です。「天皇」と記された最古の木簡で、同じ地層からは「丁丑年(天武6年=677年に相当)」と書かれた木簡も出土していることから、天武天皇の時代には確実に「天皇号」が使われていたことが判明しました。
「天皇」という君主号を最初に使用した人物については、推古天皇、天智天皇、天武天皇の3つの説がありますが、各説を裏付ける史料の時期について異論があり、いまだ議論が続いている状況です。この木簡は時期が確定している唯一の史料で、天武天皇が最初に天皇号を使い始めたとする説に説得力を与えました。