飛鳥宮跡|4つの王宮が重なる場所。飛鳥時代の中心地はここだった!

飛鳥に築かれた4つの王宮

7世紀の飛鳥時代、飛鳥の地には3人(重祚含めて4代)の天皇によって4つの王宮が築かれました。一人目は舒明天皇で、630年に飛鳥岡のほとりに築きました。飛鳥岡とは現在、岡寺が位置する丘陵のことで、岡の麓という意味で「岡本宮(おかもとのみや)」と名付けられました。しかし6年後、岡本宮は焼失してしまい、舒明天皇は飛鳥の地を離れて百済宮を築くことになります。

舒明天皇の後に皇位についた皇極天皇は642年に再び飛鳥の地へ宮を移すことを宣言し、翌年に移りました。これを「板蓋宮(いたぶきのみや)」と言います。板蓋宮は、乙巳の変で中大兄皇子(のちの天智天皇)たちによって蘇我入鹿が切られた場所でもあります。この事件を経て即位した孝徳天皇は飛鳥を離れて難波に宮を築きますが板蓋宮は維持され続けたようで、孝徳の没後は板蓋宮で再び斉明天皇が重祚しました。

斉明天皇は板蓋宮が焼失したのを機にいったん仮宮に移りますが、655年に改めて岡本に宮をつくります。舒明天皇による岡本宮の後の宮という意味で「後岡本宮(のちのおかもとのみや)」と呼ばれたようです。斉明天皇の没後、都は近江に移され、この大津宮で天智天皇は即位しました。天智の没後、壬申の乱に勝利して即位した天武天皇は後岡本宮に戻り、宮の南側を増築しました。晩年、天武は後岡本宮を「浄御原宮(きよみはらのみや)」と改名します。

後岡本宮と浄御原宮の遺構

「飛鳥宮跡」と呼ばれる遺跡では発掘調査によって3期に渡って遺構が発見されました。それらは、上から
・Ⅲ期:後岡本宮(斉明天皇)・浄御原宮(天武天皇)
・Ⅱ期:板蓋宮(皇極天皇)
・Ⅰ期:岡本宮(舒明天皇)
の遺構であることが分かっています。3人(4代の天皇)によって築かれた4つの王宮はすべて同じ場所に築かれたのでした。

飛鳥宮|飛鳥資料館(復元模型)
南側から見た図。中央の区画が内郭で、その右下に東南郭。宮の左上には苑池が広がっていた。

発掘では最も上層にあるⅢ期遺構を壊さないように下層の調査を行う必要があるため、Ⅰ・Ⅱ期遺構についてはあまり調査が進んでいません。最も調査が進んでいるⅢ期遺構(後岡本宮・浄御原宮)についても、王宮の全容は分かっておらず、判明しているのは斉明天皇が築いた内郭と苑池、天武天皇が増築した東南郭(通称「エビノコ郭」)です。現在、地表に遺構展示がなされているのはこのⅢ期の状態です。

内郭から見ていきましょう。内郭は内裏のことです。東西約155m×南北192mの規模で、掘立柱塀を境に大きく南区画と北区画に分かれています。この2区画は地面の舗装方法が異なり、南区画は砂利石敷、北区画は玉石敷でした。これは2つの区画で用途が異なることを示しているそうで、南区画は公的な空間、北区角は天皇の私的な空間と考えられています。

内郭北区画舗装(復元)
内郭北東隅に復元されている玉石舗装。

内郭南区画は南側に5間×2間の大きな門が築かれました。この門が内郭の主要な入口になりました。門からは左右に掘立柱塀が延び、内郭全体を囲っています。

内郭南門|南側から撮影
東西5間×南北2間の門。内郭へ入るための主要な門。
掘立柱塀|東側を撮影
南門から東西方向に塀が延びる。奥の森が飛鳥岡。

内郭南区画の中央には7間×4間の正殿がありました。建物周辺からは瓦が出土しないので、板葺か檜皮葺が想定されています。この正殿に限らず、飛鳥宮の建物はすべて瓦葺ではありません。瓦葺が採用されるのは藤原宮からでした。

内郭南区画正殿跡|南側から撮影
東西7間×南北4間の建物跡。

内郭南区画の東西には南北に細長い建物が2棟ずつ計4棟建っていました。諸臣が日常的に侍する場所(庁)だったと想定されています。

庁跡|南側から撮影
東西2間×南北10間の建物。

内郭北区画には東西8間×南北5間の建物が南北に2棟並んで建てられていたことが分かっています。これらの棟の東西両脇には脇殿が付属していました。この2棟は全く同じ規格で建てられていましたが、それぞれ用途の異なる正殿と見られています。

内郭北区画正殿跡|南側から撮影
遺構展示などはなされていないが、香久山や耳成山も見え、古代飛鳥の景観に想いを馳せることができる。

内郭北区画の東北隅では大型の井戸が発見されました。さらに井戸の西側と南側には掘立柱建物の遺構も見つかっています。ここは内郭の最奥にあたり、天皇にとって最も私的な空間になるため、これらは祭祀に関わる諸施設だと見られています。

井戸西側の建物|南側から撮影
東西6間×南北4間の建物。東と西が階段が取り付いていた。
井戸南側の建物|南側から撮影
東西7間×南北4間の建物。西側に階段が取り付いていた。
井戸跡|南側から撮影
井戸枠は一辺1.75m。その周囲には石組みの排水溝がめぐり、全体では一辺10mほどの区画を持つ。

続く天武天皇は、この後岡本宮の内郭をほぼそのまま引き継ぎ、宮の東南側に新しい郭を築きました。この東南郭(通称「エビノコ郭」)は西側に門を開いており、東西9間×南北5間の正殿が建てられていました。この正殿は宮中で最も大きな建物です。斉明天皇の時代に築かれた3棟の内郭正殿に、この東南郭正殿を加えると、天武天皇の時代には全部で4棟の正殿があったことになります。

4棟の正殿はなにに使われたのか?

「日本書紀」では、天武天皇の時代に宮中で行われた儀式や政務のことが記されています。675年(天武4年)正月には、「西門の庭」で射礼(じゃらい)と呼ばれる弓矢の儀式を行っています。これ以降、射礼はほぼ毎年行われるようになりますが、677年(天武6年)には「南門」で行っています。「西門」は東南郭の西門、「南門」は内郭南区画の南門にあたると見られています。門の前には儀式に使われる大きな広場があったのです。

680年(天武9年)正月には、天武天皇は「向小殿(むかいのこあんどの)」で出御し、「大殿」に集まった王卿たちに宴を賜っています。また、翌681年(天武10年)にも天武天皇は「向小殿」に、親王たちは「内安殿(うちのあんどの)」に、諸臣たちは「外安殿(とのあんどの)」に出て、酒を酌み交わしながら舞を見学したようです。これら「向小殿」「大殿」「内安殿」「外安殿」は正月の宴で一体的に使用される建物群だったことが推測され、北区画の2棟の正殿をそれらに当てる説があります。

飛鳥宮内郭|飛鳥資料館(復元模型)
南区画の正殿が「大安殿」、北区画の南側の正殿が「外安殿」、北側の正殿が「内安殿」と想定されている。

同じく諸臣が侍する建物としては「大安殿」があり、685年(天武14年)にすごろくなどの遊戯を楽しんだようです。内郭南区画の正殿が大安殿にあたると見られています。

政務を行う建物としては「大極殿」があり、681年(天武10年)2月に天武天皇と鵜野皇后(のちの持統天皇)が出御し、諸王・諸臣の前で律令(浄御原令)の編纂を命じています。この時代にはまだ「大極殿」はなかったのではないかとの疑問も提示されていますが、重要な詔を発するなど重要な儀式の場として東南郭の正殿が使われたと考えられています。

飛鳥宮東南郭|飛鳥資料館(復元模型)
中央の正殿が「大極殿」と想定されている。

一方で、683年(天武12年)と686年(天武15年)には「大極殿」で宴を催すなど重要な儀式以外にも使われた記録があります。この時代には大極殿の役割がまだ定まっていなかったとする説や「大安殿」のことを書き誤ったとする説などがあるそうです。

そのほか、天皇が「御窟殿(みむろのとの)」で俳優や歌人たちに禄を賜った記録があります。この御窟殿は内郭北区画でもさらに奥まった場所の建物だと考えられており、ちょうど井戸の遺構が発見された辺りが想定されています。

飛鳥宮は歴代の造宮を通して徐々に律令国家に相応しい様式を整えていきますが、建物の機能が明確に分かれていないなど、まだまだ発展途中にありました。そこで天武天皇は、684年(天武13年)に新しい宮を建てる土地を選定し、藤原宮の造営に乗り出します。天武は藤原宮が完成する前に没してしまいますが、その意思を継いだ鵜野皇后が持統天皇として即位し、律令国家に相応しい王宮を整備していきます。

基本情報

  • 指定:国史跡「飛鳥宮跡」
  • 住所:奈良県高市郡明日香村岡
  • 施設:飛鳥資料館(外部サイト)