地方の支配者|国造、郡司、荘官、そして地頭。地方支配の実権を握った者たち。
弥生時代の稲作伝来以降、地域を統治する支配者が各地に誕生しました。やがて中央政権が畿内に誕生しますが、在地の有力者が引き続き地方の支配を担います。律令による地方支配制度では地域支配の体制は変わらなかったのです。
しかし、武家の世になると武力による支配が浸透し、地方支配のあり方が変わります。これまでの在地勢力は外部からの武家勢力によって一掃され、地方支配権の移動が起こりました。今回の跡ナビでは、これら地方の支配者の変遷をたどっていきたいと思います。
首長・王(弥生時代)
地方支配者の誕生は弥生時代にさかのぼります。弥生時代に日本へ伝来した稲作社会においては、米の生産量を増やすために土地利用の拡大と効率化を進める必要がありました。この目的のもとに民を統治し、組織化して集落をつくり、その集落の代表者として他の集落と交渉する人物が求められたのです。
彼らは弥生時代中期には現れ、やがて複数の集落を束ねるようになり「首長」とも呼べるような存在となっていきました。弥生時代後期には複数の首長を束ねる「王」が存在し、まとまった地域一体を「国」として支配しました。
国造(古墳時代)
これら王たちによる連合国としてヤマト政権が畿内に誕生しました。この中央政権の盟主は特に「大王」とも呼ばれます。地方の王(豪族)たちは、ヤマト政権という連合国の一員であることを内外に示すように前方後円墳を築いていきました。しかし、ヤマト政権による支配体制は地方にまでは及ばず、在地の豪族たちが引き続き自らの領域を支配しました。
この時代の豪族は、自らの居館で政務を行っており、ときに一族や近臣を引き連れて中央に出仕し、典曹人(てんそうじん)や杖刀人(じょうとうじん)といった職務に就いて大王に仕えていました。
5世紀をとおして外交権を一元化し、鉄武器や農耕具を豊富に入手できるようになったヤマト王権は、6世紀に入って氏姓制や部民制などを定めて地方への支配を強めていきます。さらに国造制によって、地方豪族たちは国造に任命され、中央政権の下で地方の支配に当たることになりました。
しかし、地方の豪族は領域内の裁判権や警察権を依然として握っており、中央政権は地方の民を直接的に支配することができませんでした。
郡司(飛鳥時代・奈良時代)
ヤマト政権が成熟し、古代国家として歩み始めた大和朝廷は、改新の詔をもって「天下立評」を行いました。これは、これまで国造によって支配されていた国の内部を「評」という単位に分割する制度です。各評には「評司」を置いて評内の支配に当たらせましたが、これまで国造に就いていた地方豪族が評司として任命されたので、支配の担い手は依然変わらずでした。
そして、700年代になり大宝律令が制定されて大きな転機を迎えます。日本は「国・郡・里」の階層による整然とした行政組織で統治されるようになったのです。国の統治は国司が行うことになり、中央政権から派遣された貴族が任に当たりました。国の内部には複数の郡を置きました。この郡は先の「評」と同等のもので、郡を治める郡司には引き続き地域の豪族層が任命されました。
ここに来て、地方豪族の支配領域はかなり限定的となった上に、国司という中央官僚の支配下に組み込まれたことになります。これまで地方豪族が持っていた、徴税権・警察権・裁判権などは国司が握り、豪族たちは郡司として事務を担うのみになったのです。
しかし、国司たち中央貴族は、地方の庶民を直接的に支配できたのではありませんでした。地方支配の要となる戸籍の作成にあたっては、地域内を熟知している豪族層の力が必要だったのです。郡司は地域内で一定の富と名望も持っており、完全に骨抜きにされたわけではありませんでした。
郡司としての地方豪族は郡家にて居住し、執務を行っていました。また、その家族構成は彼ら自身の戸籍からある程度分かっています。「最古の戸籍」とも言われる「筑前国嶋郡川辺里戸籍」によると、嶋郡の大領(郡司の長官)であった肥君猪手の家族構成は以下のとおりです。
- 亡き父の後妻
- 本人の妻・妾と子
- 長男夫婦と子
- 次男夫婦と子
- 三男夫婦と子
- 弟夫婦
- 妹夫婦
- 従兄弟の家族
- 遠縁の家族
- 奴婢37人
猪手の戸だけで合計124人にも及び、口分田は13町程度(およそ15ha)もありました。
郡司は役人としての執務の傍らで、これら口分田を耕作し、収穫した種籾を周辺の農家に貸し与えて利息を得ることで徐々に富を蓄積していきました。
また、墾田永年私財法が成立し開墾が奨励されると、親族や周辺の農民なども動員しながら開墾を行い、私有地(初期荘園)を広げていきました。
国司の下であっても、郡司である地方豪族は一定の力を保持していきます。
荘官(平安時代)
墾田永年私財法のもとで郡司が富を蓄えていた一方で、地域の中でも農業経営に長けた有力な農民が同様に力をつけてきていました。
さらに、国司として赴任してきていた中・下級貴族が任期後も都に帰らずその土地に居座り、任期中に開墾した荘園をベースに富を蓄積する土着化の傾向が現れるようになります。
これら新興の有力者である富豪農民や土着貴族の間で、これまでの伝統的豪族である郡司の力は相対的に弱まっていくのです。
郡司の徴税機能に頼っていた国司は自らが徴税の実務に当たる必要が生じ、朝廷からもその権限を強化されます。一元的に徴税を担うようになった国司は特に「受領」と呼ばれ、様々な方法で農民から取り立てを行いました。受領は土地を「名」という単位に分割し、その「名」ごとに徴税を行うようになりました。こうして、中央政権の支配が、豪族層を通さず、直接的に地域内に浸透することになったのです。
さらに受領は、これら徴税実務を地域内の有力者を使って行うことにしました。富豪農民、土着貴族、これまでの伝統的豪族の有力者3者は、受領の支配下のもとで在庁官人として実務を行うか、自ら蓄えた富や開墾した荘園をベースに受領と対立していくかで別れていきます。
中央政権の支配が地方に直接的に及んだ背景には、郡司に就いていた伝統的豪族が弱体化した一方で、富豪農民層が受領に対抗できるほどの力をつけていなかったためでした。そのちょうど狭間の時期に、受領たちは直接的に地域支配に当たり、私腹を肥やしていきました。
これら受領に対抗するために、富豪農民や伝統的豪族らはときに連携して受領の館を襲撃したり中央政府に訴えたりしました。また、開墾した荘園を院・摂関家・寺社などの「権門」と呼ばれる中央の有力者に寄進することで、受領の徴税から免れる策に出ました。
寄進された荘園は権門のもとで徐々に集約され、権門からの立荘の動きもあり、田だけではなく山野も含めたまとまった土地が領域型荘園として設定されるようになりました。権門は在地の有力者(富豪農民・土着貴族・伝統的豪族たち)を荘官に任命し、その領域内の支配に当たらせます。こうして、地方の支配権は再び在地勢力に戻ったのでした。
しかし、その担い手は伝統的豪族層だけでなく、富を蓄積した有力農民層や土着化した中・下級貴族層でもあったのです。
地頭(鎌倉時代・室町時代)
鎌倉時代に入り、荘園における現地支配は地頭が担うようになり、この地頭の任命権は鎌倉幕府が握りました。まずは東日本において、荘園を管理していた平家方の荘官たちは幕府の御家人に置き換わっていきました。承久の乱の後には、西日本の荘園が幕府の支配下に入り、東国の御家人が赴任して現地の支配を行うことになります。
強大な武力を持った東国の武士層によって在地勢力は一掃され、多くの荘園の支配権が御家人に移動しました。地方支配の担い手は鎌倉幕府が派遣する武士層に置き換わったのです。これをもって、武力による地方支配へと体制が大きく変わったのでした。
室町時代に入って、地頭は、幕府によって任命された守護職のもとに組み込まれていきますが、地域の支配を実質的に担うのは地頭職でした。武力によって地域内を完全に掌握することで、地頭は勢力を拡張していき「国人」と呼ばれるようになっていきます。
幕府権力が弱まってくると徐々に世が乱れはじめ、彼ら国人は周辺の領域に侵略するようになりました。領土を拡張していった国人はやがて「国衆」と呼ばれるようになります。本格的に戦国の世に突入すると、巨大な領国をもつ戦国大名でさえ彼ら国衆の力を無視できなくなりました。
戦国大名たちは、国衆に領域内の支配権を完全に認めるかわりに、自らの軍営に取り込んでいきます。戦国大名の領国内には、国衆による排他的な領地がいくつも存在し、それら領域内は国衆が支配を担ったのです。全国の地方支配が中央政権のもとに一元化されるのは、戦国時代を勝ち抜き江戸幕府を開いた徳川の時代に入ってからでした。
参考文献
- 『国造(くにのみやつこ)ー大和政権と地方豪族』2021年初版
著者:篠川賢(成城大学名誉教授) - 『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで』2021年初版
著者:伊藤俊一(名城大学人間学部教授) - 『国衆 戦国時代のもう一つの主役』2022年初版
著者:黒田基樹(駿河大学教授)