大内氏遺跡|「天下人の先駆け」大内義興。戦国時代西国の覇者が築いた館跡とは?
周防国を本拠地として西国一の守護大名となった大内氏。朝鮮や明との交易を背景に華やかな室町文化を形成し、大内氏の館周辺は「西の京」と呼ばれほど栄えました。大内義興の時代には足利将軍を擁して上洛を果たし、勢力の絶頂を迎えます。しかし、このとき世はすでに戦国時代に突入していました。大内氏は、領土拡大を目論む出雲の尼子氏や急速に台頭してきた安芸の毛利氏と対峙することになるのです。
戦国時代のはじまり「明応の政変」
第9代将軍足利義尚(よしひさ)の死後、10代将軍となった足利義材(よしき)は将軍家の権威を回復させるため、畠山政長と協調して畿内各地にはびこる反乱分子の征圧に乗り出しました。しかし、1493年、畠山政長と対立していた細川政元が隙をついてクーデターを起こします。細川政元は、畠山政長を攻めて自殺に追い込むとともに、将軍足利義材を捕らえて幽閉し、代わりに義材の従兄弟である義澄(よしずみ)を11代将軍として据えたのです。これを「明応の政変」と呼びます。
室町幕府においては、6代将軍義教が幕臣に暗殺されるという事件が過去ありましたが、幕臣の一人が別の将軍候補を擁立して現将軍を廃位に追い込むといった事件は初めてでした。この事件をもとに室町幕府は崩壊を初め、同時に戦国時代が開始したと言われています。
こうして始まった「足利義澄ー細川政元」による政権運営は、その後、細川家の内紛を勝ち抜いた細川澄元が引き継ぎ、「足利義澄ー細川澄元」政権へと続きます。一方、捕らえられていた足利義材は京都から逃亡し、越前・越中に落ち延びた後、さらに周防に向かい、大内義興(よしおき)によって保護されました。1499年も暮れのことです。
大内義興、足利義材を奉じて上洛
大内義興は、周防・長門2国を中心に、豊前・筑前の守護職につき、さらに石見・安芸の一部にまで勢力を伸長させていた大内家の当主です。朝鮮や明との貿易を行い、豊かな財政基盤も持っていました。室町時代に、西国を支配する最有力の守護大名だったのです。
足利義材が周防に下向してからおよそ9年後の1508年、大内義興が動き出します。足利義材を擁立し、大軍を率いて京都に攻め入ったのです。ときの政権「足利義澄ー細川澄元」はこれに驚き、京都から逃亡。晴れて将軍に返り咲くことができた足利義材は、これを機に義稙(よしたね)と改名します。
逃亡した細川澄元に代わって、兄にあたる細川高国は足利義稙を支持し、幕臣筆頭である管領に就任。大内義興は管領代に就任し、「足利義稙ー細川高国ー大内義興」政権が発足しました。地方の戦国大名が将軍を奉じて上洛を果たし、政権の中心的役割を担う最初の事例でもあり、まさに「天下人の先駆け」でもあります。この後、義興は10年間も在京することになりました。
長きにわたる在京の間に大内義興は日明貿易を独占し、財政基盤を拡大させることに成功します。また、京都に平安をもたらしたとして後柏原天皇から従三位を与えられて公卿に列するなど、武家としては破格の位階に昇進しました。しかし、出雲の尼子氏に不穏な動きがあるとして、1518年に領国である周防国山口に帰国します。畿内だけでなく地方にも、戦国の世は到来しようとしていたのです。
天下人の遺構「大内氏遺跡」
大内氏館跡
現在、龍福寺の境内になっている場所は大内義興の居館跡(通称「大内氏館」)です。大内氏の代々の当主もここで政務をとったとされます。境内の北辺には土塁が残っており、西側では門跡が発掘され、西側内門として復元されています。小規模な門であったことから内門と想定され、境内の西側にも館の敷地が広がっていたと考えられます。防備が整った広大な館だったようです。
西側内門の近くでは、1500年代前半のものとされる枯山水庭園跡が発掘され、当時の様子を模して復元されています。また、境内の南東側では池泉庭園跡が発見されており、大内義興の時代を想定して復元がなされています。庭園の隅には鑑賞するための建物跡も発見されました。室町~戦国時代の守護大名の館の様子が伝わります。
築山館跡
館北側には築山館跡と呼ばれる敷地が広がっています。ここは、大内義興の祖父教弘の時代に築かれた別邸で、教弘没後に教弘を鎮魂する施設が建てられたと推定されています。現在、この地は大内義興が別の地に建立した八坂神社本殿がそのまま移築され、現存しています。また、最北端の土塁が残り、大内氏館の当時の規模を実感できます。
凌雲寺跡
大内義興は、大内氏館から北西の方角へおよそ10km程離れた山間地に、凌雲寺を築きました。現在、その地には物々しい石垣が屹立した状態で残っています。
石垣は高さ2.6m、長さ60m程。寺の惣門とも推定されていますが、寺院には不相応な程の堂々とした石垣です。南以外の三方を山に囲まれた要害の地に立地していることからも、義興はこの寺を万一の事態に備えた城塞と考えていたのでしょう。
大内義隆と尼子晴久の戦い
帰国した大内義興は、石見や安芸の大内領に侵攻してきた出雲守護の尼子氏と転戦するなか、1528年に病没。跡を継いだ子の義隆は、安芸の国人・毛利元就などを味方に引き入れながら尼子氏を牽制します。
1540年、尼子氏当主・晴久は、毛利元就の居城・郡山城を包囲したものの撃退され、尼子氏に付いていた国人衆の離反を招きます。この機を捉え、大内義隆は大規模な軍を編成して出雲に出陣、尼子晴久の居城・富田城を攻めました。しかし、一年に及ぶ滞陣にも関わらず、大内義隆は富田城を攻め取れず、撤退を余儀なくされます。このときの撤退戦における大内方の損害は大きかったそうです。
国元に帰った大内義隆は領土拡張の野心を失い、文治政治に切り替えていきます。これに不満を募らせた武断派の陶隆房(すえたかふさ。のちの晴賢)が1551年にクーデターを起こし、追い込まれた大内義隆は自害してしまいました。
大内義長と毛利元就の戦い
義隆亡き後、陶隆房(「晴賢(はるかた))」に改名)は大内家当主として大内義隆の甥である大内義長を据え、実権を握ります。しかし、急速に力をつけ始めた毛利元就と厳島で戦って敗れ、自害。支柱を失って弱体化した大内義長は、大内氏館西方の鴻ノ峰(こうのみね)に高嶺城を築いて毛利元就の侵攻に備えます。
しかし、高嶺城は未完成だったのか、毛利方の軍勢の前に籠城の用をなさず、放棄せざるを得ませんでした。大内義長は、長門方面に逃亡し、1557年に自害。ここに200年の栄華を誇った大内氏は滅亡したのでした。
その後、周防・長門を勢力下に組み込んだ毛利元就は西国の新興勢力として戦国大名にのし上がっていきます。高嶺城は毛利方の支城として整備が進み、このときに積まれた石垣が現在も残っています。戦国時代は次のステージへと突入しようとしていました。
基本情報
- 指定:国史跡「大内氏遺跡」
- 住所:山口県山口市大殿大路、上宇野令、中尾
- 施設:山口市歴史民俗資料館(外部サイト)