中宮寺跡|聖徳太子ゆかりの寺院。飛鳥時代には別の場所にあった?

四天王寺式伽藍配置の中宮寺

法隆寺の一画に佇む中宮寺は飛鳥時代に創建された歴史の長い寺院です。法隆寺の真横にあるので創建時から位置を変えていないように思ってしまいますが、いまの境内は江戸時代に移転したもので、創建当初はここから東へ500m程離れた場所にありました。その跡地がいまの中宮寺跡史跡公園です。

中宮寺跡推定南門|北を向いて撮影
塔の南側にあったと想定される門。回廊はなく築地塀が左右に伸びていた。

創建時の中宮寺は、塔と金堂が前後に並ぶ四天王寺式伽藍配置でした。回廊跡は見つからず、代わって築地塀が取り囲む伽藍だったようです。公園内には基壇が復元され、当時の柱位置に模造の礎石が置かれています。

中宮寺跡塔・金堂|北を向いて撮影
手前が塔跡で三重塔が建っていたと想定されている。奥が金堂跡。

中宮寺の創建については当時の歴史書『日本書紀』には何も記されておらず、詳細は分かっていません。平安時代に編纂された『聖徳太子伝暦』によると「聖徳太子(厩戸皇子)の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が居所としていた宮殿を寺とした」そうです。四天王寺、斑鳩寺(いまの法隆寺の前身)、山田寺などの飛鳥時代前半に建立が始まった寺と同じ伽藍配置なので、これらと同じ頃に創建が始まったのでしょう。伝説では厩戸皇子が創建した寺院の1つですが、確かなことは分かっていません。

中宮寺に伝わる天寿国繍帳の銘文

現中宮寺に伝わる有名な工芸品が天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)です。繡帳とは、刺繍の施された帳(とばり)のことで、仏殿の内部の柱間に張り渡して使われたと見られます。もともと法隆寺に伝来していたものですが、布のため傷みやすく、いつかし断片が残るのみになってしまいました。鎌倉時代に法隆寺から中宮寺に移り、以降ずっと中宮寺が保有し続けています。現存しているものは、残った断片を継ぎはぎしてようやく1m四方の広さになったものです。

中宮寺

現中宮寺本殿にはこの複製品が展示されています。よく見ると亀が何匹か刺繍されていて、亀の甲羅に4つの文字が縫われていることが分かります。繍帳全体にはこのような亀が100匹も縫われており、これらをつなぎ合わせると400文字に渡る銘文が施されていました。

この銘文にどのようなことが書かれていたのか、残った断片だけでは当然分からないのですが、平安時代の編纂と見られる『上宮聖徳法王帝説』にその全文が記載されています。それによると「推古天皇29年(621年)12月に厩戸皇子の母・穴穂部間人皇女が亡くなり、翌年2月には皇子も亡くなった。皇子の妃である橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)は皇子の死を悼んで、推古天皇に頼み、繍帳を製作してもらった」とのことです。

厩戸皇子家系図

橘大郎女は推古天皇の孫にあたります。孫娘の頼みでもあり、厩戸皇子はともに仏教を興隆してきた政権の首班でもあったため、推古天皇は職人や采女に命じて繍帳を作らせたようです。こうした経緯から、繍帳には皇子が死後に往生した場所である天寿国が描かれたのでした。

厩戸皇子によって開発された斑鳩の地

ところで、中宮寺の「中宮」とは穴穂部間人皇女が住んでいたころの宮殿の名前です。周辺には厩戸皇子の宮殿「斑鳩宮」、のちに法起寺となる「岡本宮」などがあり、その真ん中にあったので「中宮(なかつみや)」と呼ばれるようになったとか。史跡公園からは法隆寺五重塔や法起寺三重塔をわずかに遠望することができ、その立地の特徴が分かります。

法隆寺側の景観|中宮寺跡から東を向いて撮影
法起寺側の景観|中宮寺跡から北を向いて撮影

中宮寺の位置する斑鳩地域は、推古天皇9年(601年)に厩戸皇子によって開発が始まりました。皇子は、この地が奈良盆地内中の河川が大和川に集まる場所であり、ここで向きを変えて河内平野へ流れていくという交通要衝であることに目をつけ、自らの拠点として整備をしたのです。

とはいえ、当時の都である飛鳥からはかなり離れているため、斑鳩と飛鳥を結ぶ直線道も整備したそうです。いま「太子道」と呼ばれるこの道は南北に垂直ではなく、時計で言えば「5と11」を結ぶ角度(約20度)で傾いています。そのため、この道に沿って建てられた斑鳩宮や斑鳩寺はいまの法隆寺よりももっと南東を向いていました。その名残が法隆寺西院から東大門をくぐって現中宮寺に向かう道の角度に現れていると言います。

法隆寺東大門|法隆寺西院側から東を向いて撮影
東大門から奥側(現中宮寺側)は手前の道と角度が異なる。

しかし旧中宮寺にはこの傾きがなく、南北にほぼ垂直な区画で建てられていました。穴穂部間人皇女の死没を受け、厩戸皇子は自らの病に苦しみながらも、母の死を弔うため生前の宮殿を中宮寺に改めるよう発願しました。このとき、岡本宮についても寺院にするよう息子の山背大兄王に遺言したのかもしれません。厩戸皇子の死後、残された一族は中宮・岡本宮の周辺を寺院地区として再開発したために、この辺りだけ南北に垂直な区画になったのではないでしょうか。

基本情報

  • 指定:国史跡「中宮寺跡」
  • 住所:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺東
  • 施設:中宮寺(外部サイト)