大覚寺|嵯峨天皇の離宮から始まった太上天皇の後院

平安時代前期、退位した天皇(太上天皇)は内裏を去り、後院と呼ばれる離宮に移り住むようになりました。これまで天皇位は終身制をとっていましたが、奈良時代の聖武天皇から生前譲位が見え始め、やがてこの流れは、平安末期に確立される院政へとつながっていきます。後院への移住を最初に行ったのは嵯峨天皇でした。いったいどのような背景があったのでしょうか。

平城天皇と嵯峨天皇

平安京への遷都を実現した桓武天皇には3人の有力な皇子がいました。藤原乙牟漏との間に生まれた安殿親王と神野親王、そして藤原旅子との間に産まれた大伴親王です。桓武天皇の死後、806年に皇位に付いたのは、第一皇子の安殿。平城天皇です。皇太子となったのは、同母弟の神野親王でした。

平城天皇の治世はわずか3年でしたが、その間に行政機構の統廃合や公的儀式の見直しなど積極的な政治を行いました。しかし809年に体調を崩し、療養に専念するため神野親王に皇位を譲ります。こうして誕生した嵯峨天皇は、平城上皇の皇子高岳親王を皇太子に指名しました。退位した平城上皇は療養場所を転々としたのち、最終的に平城旧都へと移っていきました。

奈良での療養で体調を回復した平城上皇は、わずか3年の治世に未練があったのか、皇位への復帰を望み始め、にわかに平城旧都への遷都を宣言しました。これは嵯峨治世への明確な介入行為。天皇への宣戦布告ともとれる行いでした。この遷都宣言の裏には、平城上皇が寵愛していた藤原薬子とその兄藤原仲成の蠢動があったようです。

しかし、嵯峨天皇はこの動きに迅速に対応し、平城上皇のクーデターを抑え込むことに成功。藤原薬子は自殺、藤原仲成は処刑、そして平城上皇が出家することで事件は終息しました。嵯峨天皇は平城上皇の体面を気遣い、表向きは薬子と仲成を首謀者として事件を処理しました。しかし、皇太子だった高岳親王を廃し、代わりに異母弟の大伴親王を皇太子としました。嵯峨天皇は、この事件によって太上天皇が天皇権力に及ぼす影響を痛感。大伴親王に娘の正子内親王を娶せるなど、皇親の協調に気をつかったと言います。

淳和天皇と仁明天皇

嵯峨天皇の治世は14年に及び、東北蝦夷戦争の最終仕上げ、法令や細則の整理、儀式法典の制定、内裏の施設名称の唐風化など、数々の実績を残していました。しかし824年、突如退位を表明。悠然として穏やかな性格をしていた嵯峨天皇にとって、本音では政治世界が肌に合わなかったようです。公卿の反対も押切って大伴親王(淳和天皇)に譲位すると、在位中に慣れ親しんでいた離宮に移り、政治の一線から潔く身を引きます。これ以降、太上天皇が宮外に設けた離宮に移り住む習慣が始まり、その離宮を「後院」と呼ぶようになりました。嵯峨上皇の最初の後院は冷然院と呼ばれます。

淳和天皇は、嵯峨上皇の皇子、正良親王を皇太子に指名。これは、嵯峨上皇から見ると「天皇は弟(義理の息子でもある)、皇太子が実の息子」という状況。後院に引き下がったとは言え、嵯峨上皇の権威は非常に重く、嵯峨上皇本人の性格も相まって平和裏に両統迭立の体制が始まりました。とはいえ、嵯峨上皇が政治に関与することはなく、淳和天皇は嵯峨の路線を引き継ぎつつものびのびと政治を行うことができました。

淳和天皇は10年ばかり治世を行ったのちに退位し、833年に正良親王が仁明天皇として即位。皇太子には恒貞親王が指名されました。恒貞親王は淳和上皇と正子内親王の間に産まれた皇子で、嵯峨上皇の孫に当たります。嵯峨と淳和の間で形成された両統迭立体制は順調に継承されていったのです。淳和後上皇もあっさりと後院に退きました。淳和の後院は西院、後に淳和院と呼ばれます。

翌年の正月は、嵯峨・淳和・仁明の三者が相互に離宮を訪ね、年賀を祝したとのこと。3者の協調が図られ、まさに両統の安泰を象徴する穏やかな年頭だったようです。

同年、嵯峨上皇は冷然院を仁明天皇に譲り、自身は嵯峨野にあった御所を整えてそこに移りました。嵯峨野は平安京の西方近くにありながら、豊かな自然が残されており、嵯峨上皇は天皇在位中もよく行楽に赴いたとのこと。ここで嵯峨上皇は悠々自適に余生を送ることとしたのです。

嵯峨院跡大覚寺

嵯峨上皇は、嵯峨院に移るにあたり離宮の目の前に巨大な人工湖を築きました。その名残りがいまの大沢池。中国の洞庭湖を模して作られたことから庭湖とも呼ばれる、日本最古の人工庭池です。

大沢池|東岸から撮影
正面に見えるのは大覚寺本堂である五大堂。

池の北岸には、名古曽の滝という遣水の跡が復元されています。これは離宮内の庭園に設けられたもので、ここから池の方に流れ込んでいました。流れ込んだ先には2つの中島があり、大きい方を天神島、小さい方を菊ヶ島と言います。両島の間には庭湖石と呼ばれる立石が。菊ヶ島は室町時代の造作とも言われますが、北岸から眺められる現在の景観は嵯峨院の時代を彷彿とさせます。名古曽の滝の付近には築地塀跡が発見されており、ここから北側に向けて離宮の領域が広がっていたようです。

名古曽の滝跡
中世の遺構をもとに復元されたもの。平安時代中期には滝は枯れており、この様子を嘆いた藤原公任の歌が百人一首にのこっている。その後鎌倉時代末期に改修されたようである。
名古曽の滝遣水
平安時代の遣水跡をもとに復元されたもの。平安時代には大きく蛇行しながら大沢池に流れ込んでいた。
天神島と菊ヶ島
大沢池北岸から、右手に天神島の先端、左手に菊ヶ島を臨む。両島の間の立石が庭湖石。

現在、大沢池の西側は大覚寺の寺域になっており、境内には皇室から下賜された建物が多く残っています。安土桃山時代以降の建築ですが、皇室ゆかりの建物では嵯峨院の雰囲気を十分に味わうことができます。

正寝殿■重文・安土桃山時代
内部は非公開。大小12の部屋からなる書院造で、部屋の1つ「御冠の間」は後宇多法皇が院政を執った部屋を再現しているとされる。
心経前殿
村雨の廊下

承和の変

順調に行くかに見えた両統迭立体制は、840年に淳和後上皇が死去、続いて842年に嵯峨上皇が崩御したことをうけて、崩壊を迎えます。嵯峨上皇の死からわずか2日後、皇太子恒貞親王の周辺で仁明天皇を廃する企てがあったとして、関係者が捕らえられ流罪に、恒貞親王が廃太子させられました。この事件は承和の変と呼ばれ、事件後に皇太子に立ったのは仁明天皇の皇子、道康親王でした。後の文徳天皇です。嵯峨と淳和による両統は解消され、嵯峨を継いだ仁明の皇統が後に続いていくことになりました。

この事件の裏には藤原良房という藤原北家の有力者の蠢動がありました。これを機に権勢を強めた良房はその後初の摂政となり、藤原北家隆盛の礎を築きます。桓武から平城、嵯峨、淳和、仁明と続いた天皇親政はやがて衰退し、藤原氏による摂関政治へと移り変わっていくのです。

承和の変によって廃太子となった恒貞親王は、母親である正子皇太后とともに仏門に入り、嵯峨院を大覚寺に改めました。大覚寺は、鎌倉時代末期に後宇多上皇が院政を行う場となり、大覚寺統と持明院統からなる両統迭立の混乱に巻き込まれていくのです。

基本情報

  • 指定:国史跡「大覚寺御所跡」
  • 住所:京都府京都市右京区嵯峨大沢町
  • 施設:大覚寺(外部サイト)