太宰府天満宮|平安時代の文人貴族、菅原道真が"学問の神様"になるまで
文人貴族が歩む道
平安時代前期、学問に秀でた政治家が多く現れ、文人官僚や文人貴族などと呼ばれて広く政界で活躍しました。彼らは藤原氏などの上級貴族ではなく中下級貴族の家の出でしたが、時代の要請に応じてその学識を活用し、天皇や皇太子の家庭教師を経て、近臣として政権運営を担っていきました。
彼ら中下級の者は、藤原家のように生まれたときから政治への道がひらかれておらず、自力で道を切り開いていく必要がありました。そのため、まずは「大学寮」という官人養成機関に入ります。大学寮には、明経道(儒教)・明法道(法律)・紀伝道(歴史・文学)・算道(算術)の四つの学科があり、いずれかを選んで知識や技術を身に付けていきます。
4つの中では、紀伝道が人気の学科でした。唐風文雅を好んだ嵯峨天皇の御世に「文学が国家大業を成す」という文章経国思想が広まって紀伝学者の地位が向上したためです。紀伝道の学科だけは入学試験が課せられて特に狭き門へとなっていきました。
晴れて紀伝道に入学した学生は「文章生(もんじょうせい)」と呼ばれ、文章博士から『文選』という詩集や『漢書』『後漢書』といった歴史書を教科書にして講義を受けます。紀伝道には一定の期間学べば自動的に官人になるコースもありましたが、官人登用試験である「対策(たいさく)」に合格して高官として官僚人生をスタートするコースもありました。対策を受験するためには、成績優秀者として文章得業生(もんじょうとくごうせい)に選ばれる必要があり、学生たちはそのために勉学に励んだのです。
対策に合格して官人となった紀伝道官僚は「中務省」や「式部省」など、文書や公儀に関わる部署で働きました。中国の歴史や儀式に関する高度な知識が求められたためです。その他には、国司として地方に赴任し、地方行政に携わる者もいました。地方に赴任した文人官僚は、中国の良吏に倣って善政をしいた者が多かったといいます。
実務だけでなく学識が高く評価された者は文章博士に任命され、官人育成のために「大学寮」で教鞭をとることもありました。時の天皇や大臣クラスの目にとまった者は、国史の編纂や勅撰漢詩集の編纂など国家事業にも携わりました。さらに、皇太子の家庭教師をつとめた者たちは、皇太子の践祚とともに「蔵人(くろうど=天皇の側近)」に任命され、天皇と密接な関係を築いていきます。
こうした文人官僚の中には、参議となり公卿に列する者まで出てきました。文人官僚として立身していく道がひらけてきたのです。これまで、名門貴族ではない中下級の家柄の者が公卿になるようなことはありえませんでした。
日本史を代表する文人貴族、菅原道真
平安時代前期に最も著名な文人官僚の家系は菅原家でしょう。菅原家は清公(きよきみ)の代から紀伝道出身の文人官僚として頭角を表しました。もちろん「対策」に合格したエリートです。菅原清公は菅原家で初めて文章博士に任命され、勅撰漢詩集の編纂にも携わりました。プライベートでも、菅家廊下(かんけろうか)という私塾を創設し、多くの門下生を育てました。息子の是善(これよし)は父を継いで文章博士を長期に渡って務め、当時異例の参議まで昇進。父から菅家廊下も引き継いぎ、多くの門人を育てました。

菅原家の私邸に創設した私塾。生徒の増加に伴い廊下でも講義を行ったことからこの名称が付いたという。
菅原是善の息子・道真(みちざね)も対策を合格したエリート官僚です。道真の代には、菅原家門下生をはじめ、多くの文人官僚が政界に進出しており、中には皇室や藤原家とも関係を結び始めていました。妬みややっかみもはびこり、文人同士の出世争いも見られるようになっていきます。こうした状況の中でも道真は昇進を続け文章博士に就任。このとき父・是善は「文章博士は身分も俸禄も低くない。他人の心を畏れ、慎んで職務に専念するように」と道真に忠告を与えています。この後、道真は多くの誹謗中傷や讒言を受け、思い悩むことになります。

江戸時代に佐脇嵩之が作成したもの。笏をもつ手は文人官僚としては意外に思えるほど骨太に描かれている。
道真が文章博士だったときの対策受験者の中に三善清行という人物がいます。清行は菅原門下ではありませんでしたが、「才名が時輩を超越する」と高い評価を受けていました。しかし、対策の出題を担当した道真は、三善清行を「愚魯」であると評価を下し、不合格にします。清行は二年後に及第して文人官僚の道を歩みはじめますが、道真と清行の間には禍根が残ることになりました。
その後、道真は讃岐国に赴任に地方行政を取り仕切る身になります。文人官僚にとって地方赴任は一般的な人事ですが、代々文章博士として教壇に立ち、祖父・父が地方赴任のなかった道真にとって、この人事異動は左遷に思えたようです。
文人貴族たちを巻き込んだ大事件「阿衡の紛議」
道真が讃岐国で3年目を迎えようとするころ、都では橘広相(たちばなのひろみ)が起草した詔勅に藤原佐世(ふじわらのすけよ)が激しく噛みつく事件が起きました。この事件を「阿衡(あこう)の紛議」と呼びます。
橘広相も藤原佐世も菅原是善の門下。橘広相の方は当時参で、宇多天皇に娘を入内させて皇子2人を産ませていました。一方で藤原佐世は当時文章博士で、最大の権勢を誇っていた藤原基経(ふじわらのもとつね)の家庭教師も務めていました。橘広相も藤原佐世もともに権力に非常に近いところにいたのです。

阿衡事件と昌泰の変に関わる文人官僚たち。
事件の経緯はこうです。橘広相は宇多天皇の命で藤原基経を関白に任じる詔勅を起草しました。その文中に「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ(藤原基経を阿衡の職に任じる)」という一文がありました。藤原佐世は「阿衡は名誉職であり、職掌がない」という難癖をつけて藤原基経に入れ知恵。これを聞いた藤原基経はすべての政務を放棄してしまいました。
藤原佐世は橘広相と同門ではありましたが、当時異例の出世を遂げていた広相を快く思っていなかったようです。また藤原基経ととっても、即位したばかりの宇多天皇を一度牽制しておく狙いがあったでしょうし、天皇外戚になる可能性のあった橘広相を失脚させる意図もあったことでしょう。文人官僚の妬みだけでなく政治的な思惑なども絡まって阿衡事件は発生したのでした。
困った宇多天皇は、紀伝道出身の官人にこの件について諮問させました。このとき呼ばれたのは、藤原佐世、三善清行、紀長谷雄(きのはせお)。藤原佐世はこの事件を引きおこした張本人ですが、他の2人についても「阿衡には職掌なし」で意見は一致。橘広相はこれに強く反論しましたが結論は変わらず、宇多天皇は心外にも先の詔勅を取り下げ、新たに基経を関白に任じる詔勅を出しました。天皇が一度出した詔勅を取り下げるなどということは本来あってはならないことなのです。
橘広相は苦渋をなめ、事件の3年後に死んでしまいました。しかしその翌年には藤原基経も死去。目の上のこぶがなくなった宇多天皇はこれを機に、事件に加担した藤原佐世を文章博士から離任させて陸奥国へ、三善清行を備前国へそれぞれ左遷し、報復を行ったのでした。一方で、宇多天皇からもその才を愛されていた紀長谷雄は藤原佐世の後任として文章博士に任命され、以降も昇進を続け、菅原道真とも親交を深めていきます。
菅原道眞の失脚を招いた「昌泰の変」
讃岐国での任期を終えて都に戻ってきた菅原道真は、宇多天皇の目に止まります。橘広相という側近を失った宇多天皇は学識に優れた官僚を新たに求めていました。道真は、宇多天皇のもとで蔵人頭に任命され、続いて参議に昇進。娘の1人を宇多天皇に輿入れし、さらにもう1人を宇多天皇の第三皇子・斉世親王(ときよししんのう)の妃としました。宇多天皇と道真は急速に関係を深めていったのです。

太宰府天満宮に菅原道真直筆と伝わる写経。
897年、宇多天皇は退位し、代わって第一皇子の敦仁親王(あつひとしんのう)が即位。父帝からは引き続き菅原道真や紀長谷雄を用いるよう訓示があったことから、醍醐天皇は菅原道真を右大臣に昇らせました。当時、文人貴族として大臣にまで昇進した者はおらず、道真が史上初。異例中の異例だったのです。道真自身、この人事は分不相応だと危ぶみ、醍醐天皇と宇多上皇には辞任の願いを何度も提出しました。しかし、認められることはありませんでした。それだけ道真の才能が愛されていたのでしょう。
道真の辞任表明が続く中、備中国から戻り文章博士になっていた三善清行から道真に「学者としての身分をわきまえ、辞職して余生を楽しむよう」諭す書状が届きます。三善清行には、道真から対策を不合格にされかつ酷評された過去があります。やはり、そのときのことを根に持っていたのでしょうか。このほかにも、道真の栄達に嫉妬する同僚から不満の声が広がりはじめていました。道真としても辞職の意向を持っているものの、天皇や上皇がそれを認めないだけだったのです。そして事件は起こります。
901年、菅原道真を右大臣から大宰権帥に左遷するという宣命が突如下りました。理由は、道真が醍醐天皇を廃し、代わって娘婿でもある斉世親王を皇位につけようとした、というもの。これを「昌泰の変(しょうらいのへん)」と言います。道真が実際に事を図ろうとしたのかは不明ですが、別の者からそういう誘いを受けたことは間違いないようです。道真はその誘いをうまく避けるなり醍醐天皇に通報するなりの政治的先手をうつ必要がありましたが、何もしなかったようです。官僚としては一流でみ、政治家としては二流だったということでしょうか。

本殿側とは意匠が異なる特異な門。
このとき、宇多上皇は、道真の左遷人事を取り消すように醍醐天皇に直訴するため内裏にかけつけましたが、藤原菅根や紀長谷雄に阻止され、参内すら叶わず、内裏西門の前で終日座り続けたといいます。藤原菅根は道真から指導を受けた紀伝道出身の文人官僚で、道真から目をかけられていましたが、恩を仇で返すことになりました。菅根は醍醐天皇の侍読からやがて蔵人頭に任命されて重きをなしていく一方で、道真との仲は疎遠になっていったのでしょう。菅根は後に参議に昇りますが、落雷に打たれて死んでしまいます。紀長谷雄も道真との交流は深く詩友とも言える関係を築いていましたが、醍醐天皇のもとで成す術はなく、事の成り行きを見守るほかありませんでした。紀長谷雄はその後も引き続き醍醐天皇から重用されて参議に昇り、従三位を賜って死去しました。

菅原道真が大宰府に向けて発つときに詠んだ歌によって一夜にして飛来したと伝わる梅。
大宰府での菅原道真は政庁での政務に関わることもできず、軟禁に近い状態で憂愁に沈んだ2年間を過ごします。903年、右大臣にまで昇り詰めるという栄達と引き換えに文人官僚同士の妬みややっかみにまみれたその生涯をとじました。現在、道真の墓所とされる地には天満宮の社殿が建立され、天神様となった菅原道真を祀るようになります。

菅原道真の墓所の上に、醍醐天皇の勅令で建立された。現在の本殿は筑前国を治めた小早川隆景による再建。
天満宮の総本社となった太宰府天満宮には、受験合格をはじめとする学業成就のために毎年多くの人が参拝しています。私たちはここ太宰府天満宮で、学業の成功を祈願するだけでなく、道真の父・是善の忠告「他人の心を畏れ、慎んで職務に専念するように。」をも合わせて学ぶ必要があるのかもしれません。

基本情報
- 指定:なし
- 住所:福岡県太宰府市宰府
- 施設:太宰府天満宮天満宮(外部サイト)