カリカリウス遺跡|オホーツク文化の内陸化とトビニタイ文化

縄文時代、続縄文時代と続いた北海道は、600年頃から擦文時代に入ります。しかし、この時代の北海道では、時代名称になっている擦文文化のみが隆盛していたわけではなく、道北ではオホーツク文化が栄え、道東ではトビニタイ文化が新たに誕生するという、複雑な文化圏を形成していました。

擦文文化

7世紀、続縄文時代の北海道に和人(本州人)が移住しはじめました。この移動によって、本州の文化が北海道に流入します。その結果、北海道では擦文文化が生まれて擦文時代に入ります。

北海道の文化圏イメージ(7世紀)
古墳時代末期にあった東北地方人々が北海道に移住したことで擦文文化が生まれた。

擦文文化の特徴は住居と土器に現れています。続縄文文化の住居はほぼ円形の竪穴に、細長い入り口が取り付いた柄鏡型をしており、竪穴の中央には炉がありました。一方、擦文文化の住居は方形の竪穴で壁際に竈があり、炉はありません。

また、続縄文文化の土器は表面に縄を押しあてた縄目紋がついている一方で、擦文文化の土器はハケやヘラで表面を整形した擦痕がついています、この擦文土器は本州から流入した土師器の影響を受けており、これまでの装飾的な要素は廃されて汎用品として普及していきました。

擦文文化の人々はサケの一大漁場であった石狩地方に根付きました。そして、サケ・マス漁を生業としていくのです。

オホーツク文化

擦文文化が道央に定着しようとする頃、道北や道東ではオホーツク文化が栄えていました。オホーツク文化とは、300~400年代に大陸の人々がサハリンを経由して道北に移住したことで誕生した文化です。住居の特徴は、五角形や六角形の竪穴で中央に炉があり、壁際には熊儀礼のための骨塚があることです。土器は、細長い紐状の粘土を土器の周囲に貼り付けた波状の紋が特徴でした。

北海道の文化圏イメージ(7世紀)
擦文文化が生まれた頃、道北から道東にかけてオホーツク文化圏が広がっていた。オホーツク文化は300年代頃からサハリン経由で流入してきた大陸文化の影響を受けている。

彼らオホーツク文化の人々は海での漁労を生業としており、ホッケやニシンを網で獲ったほかアザラシやオットセイなどの海獣狩猟もしていました。そのため、集落は海に出漁しやすい海岸沿いに形成されました。彼らは陸獣の狩猟も行っており、捕らえたヒグマの毛皮は大陸との重要な交易品になりました。擦文文化が誕生しはじめた600年代には、オホーツク文化圏は道東の根室海峡沿岸部にまで広がっていました。

一方、大陸との交易に目をつけた擦文文化の人々は、8世紀から、交易権を獲得するために道北へ進出しはじめます。その結果、道北は9世紀には擦文文化圏に塗り替わり、オホーツク文化圏は知床半島から根室半島までの限られた沿岸部に狭められてしまいました。

北海道の文化圏イメージ(9世紀)
擦文文化の人々は大陸との交易を求めて北上した。その結果、オホーツク文化圏は道東域に狭められる。

大陸との交易権を奪われたオホーツク文化の人々は生業の転換を模索しはじめます。一部の人々は海岸沿いの集落を離れ、内陸へと移っていきました。その最初の内陸地と想定されているのがカリカリウス遺跡です。

オホーツク文化の内陸化

カリカリウス遺跡は、根室海峡に接する標津町にあります。標津町は標津川によって南北に二分されており、知床山系に属す北側には知床連山を源流とするいくつもの小河川が流れています。これらの河川はサケやマスの一大遡上地となっていて、「標津川(シペ・オッ=サケが多くいる)」「伊茶仁川(イチャン=サケの産卵床)」などサケにまつわるアイヌ語由来の河川名が残っています。

これら小河川の1つポー川の左岸には標高20m程度の丘陵地が広がっています。この丘陵地は海岸から1kmほど内陸に位置しており、この丘陵上にオホーツク文化の人々は集落を形成しはじめました。この集落跡がカリカリウス遺跡です。これまで海岸沿いにしか集落を形成しなかったオホーツク文化からすると、1kmとは言え内陸側に移ったことは画期的なことだったのです。

標津湿原
根室海峡沿いの海岸からは広大な湿原が広がる。奥に見える鬱蒼とした樹林帯がカリカリウス遺跡のある丘陵地。丘陵地までは木道が整備されている。
ポー川
標津湿原と丘陵の間を縫うように蛇行する。奥は上流側。右手に丘陵地が迫り、左手には高層湿原が広がる。

遺跡には、内陸化したオホーツク文化の人々による住居跡がくぼみとして地面に残っています。オホーツク文化の特徴を引き継いで、形状は五角形をしており中央には炉がありました。しかし、熊儀礼の骨塚は見つからず、オホーツク文化の人々は内陸化ととも熊への信仰を捨てたと考えられます。その理由はまだ判明していませんが、交易権を失ったことでヒグマの毛皮を交易品に利用しなくなったことと関係があるのかもしれません。住居跡からは、オホーツク文化末期の土器が出土しました。

竪穴住居跡
丘陵上には、竪穴住居跡であるくぼみが多数残っている。復元された住居がある一帯だけでも100件分のくぼみが残ると言う。
竪穴住居跡
住居跡のくぼみが分かるように五角形の形状に沿って囲いがなされている。奥側にもくぼみが見える。
復元住居(外観)
オホーツク文化にならって屋根は樹皮葺きで復元されている。
復元建物(内部)
中央には石で囲われた炉がある。擦文文化の竈はなく、オホーツク文化の骨塚もない。
湧水
知床連山の伏流水がポー川に流れ込む。地熱の影響で冬季でも凍結しないため、湧水源の近くに集落を形成した。
ポー川でのサケ漁|ポー川史跡自然公園ビジターセンター(模型)
内陸のオホーツク文化人は根室海峡からポー川を遡上してくるサケやマスを秋から冬の主な食料とした。

内陸化したオホーツク文化の人々はポー川を下って海に出ては海上漁労を行ったことに加え、河川を遡上してくるサケを主要な蛋白源としました。海岸沿いの従来の集落に比較すると、カリカリウス遺跡からはサケ骨が非常に多く出土しているといいます。

擦文文化の道東進行

一方で、道北に進出していた擦文文化の人々はその後も拡大を続け、オホーツク海沿岸を経由して道東にまで進行してきていました。カリカリウス遺跡では、オホーツク文化の人々が集落した同じ丘陵上に擦文文化の特徴である竈のある方形の住居跡が数多く残っているほか、小谷を挟んだ向こう側の丘陵上にも擦文文化の一大集落が形成されました。擦文文化の人々もサケ漁を生業としていたため、彼ら2文化圏の人々はポー川という小河川のサケ資源を取り合っていたということになります。

擦文文化の竪穴住居跡
オホーツク文化圏の集落が残る丘陵地の対岸に位置する丘陵上には擦文文化の方形の竪穴住居跡が残っている。

このような資源の獲得競争の結果、道東部においても擦文文化の人々が競り勝ち、オホーツク文化は消失していきます。しかし、オホーツク文化と擦文文化の人々は互いに争ったというよりも、ゆるやかに接触を繰り返しながら融和していったと想定されています。このようにオホーツク文化と擦文文化が同居したことで、トビニタイ文化という新たな文化も生まれました。トビニタイ文化の住居は、擦文文化住居にならって小型化するとともに正方形に近い形に変形していきました。また、土器の特徴も、擦文土器の紋様に似せた貼付紋を付加するようになっていきます。

北海道の文化圏イメージ(10世紀)
内陸のオホーツク文化圏と道東まで進行してきた擦文文化圏が接触したことでトビニタイ文化が生まれた。トビニタイ文化は道東部の限られた領域に広がっていく。

トビニタイ文化の人々は擦文文化集落の隙間に形成され、やがてサケ漁に不利な上流部に追いやられた後、徐々にカリカリウス遺跡の外へと流出していき、残された道東域へと広がっていきました。

その後、擦文文化圏はトビニタイ文化圏の最後の道東域にも到達し、北海道のほぼ全域に浸透しました。オホーツク文化やトビニタイ文化は一部の要素を擦文文化の中に残しつつも単独の文化としては消滅してしまいます。こうした経緯を辿った擦文文化はやがてニブタニ文化(アイヌ文化)へと変質していくのです。

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