船迫窯跡|地方の「瓦」生産の実態とは?豊前国を事例に。

「瓦葺き」の建築技術は飛鳥時代に仏教文化とともに日本へ伝来し、大和地方の有力豪族を中心に寺院の建築で用いられました。やがて、藤原宮などの政治施設を荘厳化するためにも利用され、宮殿や官衙で広く用いられていきます。地方でも、飛鳥時代に氏寺で見られ始め、奈良時代には国家による公的な支援を受け、瓦工房などの生産体制が整備されました。瓦工房跡が出土した船迫窯跡を事例に、地方の瓦生産の様子を見ていきましょう。

船迫窯跡

船迫窯跡は堂がえり窯と茶臼山東窯から構成される窯跡で、英彦山系から北へ伸びる丘陵上に位置し、遺跡の周辺は里山らしい景観が広がっています。

船迫窯跡周辺の景観

ここでは瓦のための良質な胎土や焼成のための薪が採取でき、瓦生産に適した場所でした。船迫窯跡はもともと須恵器を製造する窯でしたが、7世紀後半には近傍の氏寺の瓦を焼くようになります。

瓦づくりの工房跡

船迫窯跡の1つ、堂がえり窯の近くでは奈良時代の工房だと想定される30m✕10mの建物跡が2棟発見されています。柱穴は小さく簡易な作りであることから、豊前国分寺の建設開始をきっかけに整備され、短い期間だけ使用されたようです。

小屋の前面には、瓦のための土を採取した窪地も残っています。この作業小屋では、粘土の作成や生瓦の整形の工程が行われていたと想定されています。

採取した胎土は水と練り合わて粘土にした後、木型や桶の上からこの粘土を貼り付けて叩具で叩きながら平瓦や丸瓦に整形していきます。整形された生瓦は作業小屋の下で乾燥させます。

粘土作成の様子|大分県立歴史博物館(模型※参考画像)
瓦整形の様子|大分県立歴史博物館(模型※参考画像)

窯跡

乾燥させた生瓦は窯で焼成されます。堂がえり窯は全部で4基の窯から成り、山の斜面にトンネルを昇らせる地下式登窯になります。山のやや低いところにある3号窯と4号窯では、7世紀前半まで須恵器を焼いており、7世紀後半以降に瓦を焼き始めたことが分かっています。窯内の斜面は洗濯板状になっているようで、のちの階段状の窯の先駆けとなるものだと考えられています。

手前が4号窯

3・4号窯の上には1・2号窯があり、特に2号窯は覆屋に囲われた展示館になっています。2号窯は全長10m、トンネル高さは2mで、傾斜は35度です。

堂がえり2号窯展示施設

窯内には12段の階段が設けてあり、段の上に瓦を置いて焼成しました。段を設けることで窯の傾斜を急にすることができ、火の廻りを効率化していたようです。この窯では7世紀終わり頃から瓦を焼き始めていたことが分かっています。

堂がえり2号窯|下から撮影
堂がえり2号窯|上から撮影
瓦焼成の様子|大分県立歴史博物館(模型※参考画像)

堂がえり窯で焼かれた瓦は周辺の寺院に供給されました。7世紀代の瓦は豪族の氏寺に供給されたことが分かっています。8世紀になると豊前国分寺にも供給されました。

堂がえり窯跡出土軒丸瓦(船迫窯跡公園体験学習館展示物より)
堂がえり窯跡出土鴟尾|船迫窯跡公園体験学習館

窯内からは、同じ豊前国内にある宇佐神宮寺の系譜を引く軒丸瓦のきまるがわらや、大宰府と同笵の鬼瓦などが出土しています。これらは豊前国分寺からも出土しており、国分寺建立には宇佐神宮や大宰府から技術的・経済的支援を受けていたことが想定されています。その他、氏寺のために鴟尾なども焼いていたようです。

供給先

船迫窯跡から北に3.5kmのところに豊前国分寺跡(国史跡)があります。また、豊前国分寺から1kmのところには豊前国府跡(県指定史跡)もありました。両史跡からは瓦も出土しており、船迫窯跡で焼かれた瓦が供給されたようです。

豊前国分寺講堂跡|北側から撮影
豊前国府正殿・東脇殿跡|北西側から撮影
豊前国府後築地塀(復元)

こうして、瓦は寺院や官衙の建築を通して地方にも定着し、やがて城郭などにも利用されていきます。しかし、長い間、庶民の家屋に瓦が利用されることはありませんでした。瓦自体が高価であり、瓦の重さに耐えられる建築物をつくる余裕もなかったのです。江戸時代になり桟瓦が開発されたことでようやく民家にも瓦葺きの屋根が浸透していきました。

基本情報

見学のポイント

堂がえり2号窯跡の展示施設を見学するためには、船迫窯跡公園学習体験館で展示施設の鍵を借りる必要があります。