吉野ヶ里遺跡|魏志倭人伝が記した弥生時代後期の倭国のクニについて

魏志倭人伝

中国の歴史書『三国志』の中にある「東夷伝倭人条」には、3世紀(弥生時代後期)の日本(倭国)について非常に詳しい記事が載っています。この2千文字程の記述は通常「魏志倭人伝」と呼ばれ、弥生時代後期の倭国に邪馬台国という(クニ)があり、そのクニの卑弥呼が倭国の女王として複数のクニを統合していたと記載されていました。この邪馬台国がどこにあったのか、現在でも熱い議論がかわされています。

魏志倭人伝には、邪馬台国の位置の他にこの時代の日本人(倭人)の生活や文化についても詳しく記述されており、当時について知ることのできる貴重な資料です。

この時期の代表的な巨大集落が佐賀県にある吉野ヶ里遺跡です。弥生時代前期の吉野ヶ里は小集落でしたが、以後拡大していき、後期になると巨大な拠点集落へ発展しました。その過程を辿ることのできるという点で、吉野ケ里遺跡はとても重要な遺跡なのです。

現在の吉野ケ里遺跡は国営の公園として整備され、発掘と研究の成果をもとに弥生時代後期のクニの中で拠点となる集落として復元されています。魏志倭人伝の記述も参考に細い設えも復元されているので、当時のクニの様子を体感できるようになっています。

復元・吉野ヶ里集落

吉野ヶ里集落は外環壕によって南北1km・東西0.5kmを囲われた巨大な集落で、その規模から、弥生時代後期のクニにおいて拠点となった集落だったと想定されています。全部で6つの区域から成り立っており、次のような名称が付けられています。

  • 南のムラ:下戸層が住む場所
  • 南内郭 :大人層が住む場所
  • 倉と市 :交易の場所
  • 中のムラ:司祭者たちが住む場所
  • 北内郭 :最高司祭者による祭事の場所
  • 北墳丘墓・甕棺墓列:祖先の霊が眠る場所

南のムラ

日本全国で見られる一般的な集落によく似た構造であることから、拠点集落の中でも一般層が住む区域だったと想定されています。竪穴住居3棟に対して高床倉庫1棟を1つの区画としたものが4区画ほど確認されています。

南のムラ|南祭壇から撮影

下戸は、路上で大人と出会うと後退りして路傍の草地に入り、大人に物を申すときにはひざまづき両手を地につく。

『魏志倭人伝』

弥生時代後期には、大人(たいじん)と下戸(げこ)という身分格差が生じており、南のムラは下戸層が住んでいた区域だったとして設定されています。拠点集落内に住み、かつ大人層が住む南内郭(後述)にも近いことから、大人層に仕える者たちだったと考えられます。

南のムラ|南内郭物見櫓から撮影

南内郭

外環壕の内には、中環壕と内環壕の2重の環壕で囲まれた区画がありました。周囲に城柵を巡らせるという厳重さです。この区域では、数棟の竪穴住居に加え、物見櫓と推定される掘立柱建物4棟も見つかっていることから、身分の高い者、大人層が住む区域だったと想定されています。

南内郭|物見櫓から撮影
南内郭の物見櫓
南内郭の物見櫓|倉と市から撮影

この区域内にはさらに城柵で囲まれた特別な場所があり、竪穴住居が検出されていることから、大人層の中でも特に有力な者が住んでいたと考えられています。

南内郭の特別区域

大人は皆4~5人の婦女を娶る。両親と兄弟は居所を別とした。

『魏志倭人伝』

この記述をもとに、復元された竪穴住居の中では様々なストーリーが設定されています。

大人の家
武器の出来栄えを見る。
大人の家
外国の使者を迎える。
大人の妻の家
母親が娘の髪を梳く。
大人の娘夫婦の家

南内郭では、大人層の集会所と推定される吹き抜けの掘立柱建物跡も出土しました。また、南内郭の外には、防備を厳重にした壕や城柵、逆茂木もありました。南内郭の重要さが窺いしれます。

南内郭の集会所
南内郭外の環壕・城柵・逆茂木

倉と市

この区域では20棟程の高床倉庫が出土したことから、交易の場として想定されています。

租税を治める倉庫があり、また監視のもと市が開かれて交易も行われた。

『魏志倭人伝』

城柵によって囲われた倉庫は租税を治める倉だったのでしょうか。また、交易品を保管するための倉庫もあったでしょう。

倉と市
倉と市

市で取引が行われたであろう広場空間の存在も想定されています。拠点集落内にとどまらず、国全体から物資が届き、大規模な交易の場となっていたことが推定されます。

稲穂の保管
交易品の保管

中のムラ

大人層の住居である南内郭と祭祀の場である北内郭(後述)との間の区域であり、住居群・倉庫群が発見されました。その特異な立地から、祭祀に関わる者たちの生活や作業の場として想定されています。

女王は奴婢千人を侍らせていた。

『魏志倭人伝』

邪馬台国に住む司祭者の卑弥呼は多くの奴婢を抱えていました。吉野ヶ里の拠点集落でも、北内郭に住む司祭者に仕えた奴婢がこの区域に住み、祭祀に関わる道具などを製作していたのでしょう。

中のムラの竪穴住居群
中のムラの高床倉庫群

北内郭

北内郭は、南内郭と同様に中環壕と内環壕の2重の環壕で囲われ、さらに城柵で取り囲まれた厳重な区域です。入り口は一つしかなく、しかも鉤型で、さらに厳戒な構造になっていました。集落内で最も大きな建物跡が出土し、代々の首長が眠る北墳丘墓の近くに立地することなどから、当時の最重要事項であった祭事が行われた空間だと想定されています。

北内郭

女王は祭祀を司り、その男弟が国を治めた。女王は姿を見せず、男子1人を側近くに置いた。居所とする宮殿には、楼観や城柵を設けた上に兵を置き、厳しく警固させた。

『魏志倭人伝』

巨大な建築物は、祖霊への祭事やクニ全体に関わる政事が行われた主祭殿として復元されています。

主祭殿3階での祭事の様子
主祭殿2階での政事の様子

祭事に関わる最高司祭者は姿を見せることなくこの北内郭内で住まい、男の下僕が側近くに仕え、中のムラの奴婢らとともに衣食を始めとする身の回りの世話をしていたと想定されます。

北墳丘墓・甕棺墓列

北内郭の北側には、南北40m東西27mの墳丘墓がありました。現在の高さは2.5m程ですが、当時は4m以上の高さがあったと推定されています。

北墳丘墓と祀堂

墳丘の中からは14基の甕棺が発見されました。銅剣やガラス製管玉が副葬された甕棺もあったことから、代々の首長が埋葬されたと考えられています。また、北墳丘墓と北内郭の間には甕棺墓群もあり、墳丘墓に眠る首長たちに仕えた者たちが埋葬されているのでしょう。

甕棺墓群

人の死に際しては、遺体を棺に入れ、上から土を盛って槨のない塚を作る。喪主は慟哭し、他の者は舞い踊り酒を飲む。

『魏志倭人伝』

吉野ケ里遺跡の墳丘墓や甕棺墓群は弥生時代中期(紀元前1世紀)頃に造営されたもので、弥生時代後期になると拠点集落周辺では墓地が営まれなくなります。弥生時代後期に拠点集落として成長しても、代々の首長が眠る重要な場所として祭祀の場になっていたと想定されます。

北墳丘墓前祭祀の様子|北墳丘墓内展示館(模型)
甕棺埋葬の様子|北墳丘墓内展示館(模型)

弥生時代の集落は日本全国で見つかっており、竪穴住居や高床倉庫、象徴的な建物などが復元されていますが、吉野ヶ里遺跡の復元規模はそれら全国の遺跡の比ではありません。規模だけではなく、考古学者や歴史学者による考証が重ねられ、建物の細部に当時の生活様態が反映されるように復元されています。吉野ヶ里遺跡全体が弥生時代後期の空気を醸し出すように忠実に再現されているのです。まさに、弥生の国のテーマパーク。遺跡復元のコンセプトどおり「弥生人の声が聞える」ようでした。

基本情報

  • 指定:特別史跡「吉野ヶ里遺跡」
  • 住所:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町
  • 施設:吉野ケ里歴史公園(外部リンク)