北斗遺跡|擦文時代における道東釧路の集落

縄文時代ののち、北海道では本州とは異なる時代に入りました。弥生時代から古墳時代までに相当する続縄文時代、続いて、奈良時代から平安時代頃までに相当する擦文時代です。擦文時代の文化、擦文文化は、600年代に東北の人々が北海道に移住した地域で起こり、やがて北海道全域に拡大していきます。

擦文文化の拡大

本州が弥生時代を経て古墳時代に入った頃、北海道では続縄文時代という、本州とは異なる文化圏にありました。古墳時代末期の600年代になると、東北の人々が苫小牧市あたりから北海道に流入し始めます。彼らが持ち込んだ古墳時代の文化は北海道の人々に多大な影響を与え、擦文文化と呼ばれる新しい文化を生みました。

擦文文化は道央の石狩低地帯(苫小牧市から札幌市にかけて広がる低地)と呼ばれるエリアで誕生しましたが、やがて8世紀になると道北にも浸透し、9世紀にはオホーツク海沿岸に広く定着していきました。その後、11世紀には道東南部の釧路にまで擦文文化圏が広がります。

擦文時代の北斗集落|史跡北斗遺跡展示館(模型)
集落は釧路湿原に接する丘陵上に形成された。丘陵の足元には小河川が流れ、この川を遡上するサケを捕獲していたと考えられる。

擦文文化誕生のきっかけが本州人の流入だったということもあり、擦文文化圏の人々は本州との交易を活発に行うようになります。主な交易品はサケです。擦文時代の人々は、秋季に川を遡上してくるサケを捕獲して自らの食料源としつつ、燻製にして保存の効く状態で本州に輸出していたと想定されています。そのため、サケが遡上する河川の近くに集落を構えました。釧路に進出した擦文文化の人々も、釧路湿原の周縁を流れる小河川沿いに集落を設けました。その1つが北斗遺跡です。

復元住居と釧路湿原
高台に築かれた集落の後背には釧路湿原が広がる(史跡展望台から撮影)

北斗遺跡

集落は、釧路湿原西側の丘陵上に築かれました。いまも擦文時代の住居跡がくぼみとして残っています。擦文文化の住居は、続縄文時代の丸形から変わって、本州に倣った方形の竪穴です。壁際に竈門がつくようになりした。復元された住居の屋根は、釧路湿原に生息するヨシで葺かれています。一時期の住居数は5棟程度だったと想定されています。血縁関係のある親族のみによって営まれていた集落でした。

復元住居
方形の竪穴住居の屋根はヨシで葺かれている。
復元住居の内部空間|史跡北斗遺跡展示館
古墳時代の文化を取り入れ、竪穴の壁際には竈が設けられた。

また、擦文文化の土器は縄目が消え、本州の土師器のように刷毛で表面を擦って仕上げるようになりました。この擦り痕が由来となって擦文土器、擦文文化、擦文時代と呼ぶようになるのです。

集落が設けられた丘陵の眼下には小河川が流れています。当時、この川を遡上するサケを交易品として捕獲していたのかもしれません。その他の交易品としてオオワシの尾羽がありました。オオワシは夏季にロシア東部で繁殖し、冬季になると北海道の道北や道東に南下して越冬する大型のワシで、その尾羽は矢羽として当時とても重宝されていたそうです。このオオワシは、遡上する鮭を目当てに集落の上空を飛来していたことでしょう。北斗遺跡の人々もオオワシを捕獲して、その尾羽を交易品とし、本州で生産された鉄器などを入手していたのかもしれません。擦文時代、本州で製造された鉄器が北海道全域に普及する時代でもあるのです。

丘陵下の河川

擦文時代の集落遺跡からは墓域の発見事例が少ないとされています。北斗遺跡でも擦文時代の墓域は発見されていません。彼らはどこに遺体を葬ったのでしょうか。その一つの可能性が住居葬です。死者が生前に住んでいた住居にそのまま遺体を安置していたのではないかと想定されているのです。北斗遺跡には所狭しと竪穴の住居跡が残っていますが、穴を埋めなかった理由は、そこが死者の眠る墓だったからなのかもしれません。

復元住居と竪穴住居跡
死者は住居内に安置され、家屋はそのまま残されていたか。

擦文文化圏は知床半島や根室半島へ拡大する過程でオホーツク文化と接触し、トビニタイ文化という新しい文化を生みながら、道東域を覆い尽くしていきます。やがて13世紀には、オホーツク文化の要素を取り込みながらニブタニ文化(アイヌ文化)へと展開していきました。本州では鎌倉時代の後期に差し掛かろうとする頃のことです。

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