宝来山古墳|埴輪を並べた最初の天皇、垂仁天皇とは【天皇陵の畔で Part2】
宝来山古墳
奈良盆地北部。薬師寺や唐招提寺の最寄り近鉄西ノ京駅から西大寺方面に向かっていると、左側の車窓に突如として巨大な古墳が飛び込んできます。この古墳、宝来山古墳は全長が227mで全国で21番目の大きさ。後円部の径は123m、前方部の最大幅は118m。周堤まで入れると全長は330mに及びます。周堤については江戸時代の修陵工事によって東南部分が拡張されていますが、それ以外の部分は前方後円墳の鍵穴の形状に沿って周濠が巡っています。
周濠に段差がなく水平だからでしょうか、その佇まいは堂々として落ち着いた雰囲気をまとっており、水面に浮かぶその威容は見る者を圧倒します。
垂仁天皇
宝来山古墳の築造年代は、古墳時代前期後半(300年代後半)と推定されています。この古墳は、実在したと考えられている2番目の天皇、垂仁天皇の御陵として比定されています。初代天皇である崇神天皇の皇子で、日本書紀にはイクメイリビコイサチ天皇の名で記載されています。幼少のときからしっかりした立派な容姿で、器量が深く、ごまかしたり虚栄を張ったりせず正直な人物だったと言います。日本書紀には、任那や新羅など朝鮮半島から渡来してきた人物との交流が描かれており、すでにこの頃には近畿地方でも朝鮮半島との交流があったことが分かります。
サホヒコの乱とサホヒメ
即位した垂仁天皇を最初に待ち受けていたのは大王家内部の反乱でした。それも悲しい反乱です。垂仁天皇には、サホヒコ王とサホヒメ命という2人の従兄妹がおり、妹のサホヒメを皇后に迎えていました。ある日、サホヒコはサホヒメに天皇の暗殺を指示しますが、天皇を愛するサホヒメは実行できず、一方で兄を謀反人として訴えることもできず苦悩します。悩んだ結果、サホヒメは天皇に真相を訴えるととも、反乱の兵を起こす兄のもとに去っていきました。
天皇方の鎮圧兵は、サホヒコが立て籠もる城を包囲し、サホヒメだけは救出しようと城内に呼びかけますが、サホヒメは責任をとる覚悟で応じようとしません。鎮圧兵は城に火を放ち、燃え盛る城の中でサホヒコとサホヒメの兄妹は死んだと言われています。反乱は鎮圧できましたが、垂仁天皇にとっては、愛する皇后を失う悲しい事件となりました。
埴輪の起源
その後、垂仁天皇は丹波国から5人の女性を後宮に迎え、その内のヒバスヒメを新しい皇后としました。丹波は、崇神天皇のときに派遣された四道将軍の征圧地の1つで、ヤマト政権下に組み込まれたばかりと考えられます。この地の豪族に娘を差し出すように命じていたのかもしれません。
この時代、大王家の者の死に際して、古墳の近くに陪塚を築き、殉死者を生き埋めにする風習がありました。しかし、垂仁天皇はこの風習をとても悲しみ、今後生き埋めの殉死を辞めるように命じます。皇后ヒバスヒメが薨去した際には殉死を禁じて、代わりに粘土で作った人や馬の置物を古墳に並べることにして、これを埴輪と呼びました。
田道間守と野見宿禰
垂仁天皇は、皇后ヒバスヒメとの間に生まれたイニシキイリビコ命とオオタラシヒコ尊に対して「お前たちが欲しいものを申してみよ」と聞いてみたと言います。その答えとして、兄のイニシキイリビコは弓を、弟のオオタラシヒコは皇位を望んだことから、オオタラシヒコを皇太子としました。
晩年、垂仁天皇は、橘の木を探すよう田道間守(たじまのもり)という豪族の者を大陸に派遣しましたが、田道間守が戻ってくる前に崩御してしまいます。無事に橘の木を持参した田道間守はすでに天皇が崩御していることを知って嘆き悲しみ、その場で自殺したと言います。殉死を禁じた垂仁天皇ではありますが、この話からは、垂仁天皇と田道間守との深い関係が窺えます。この他、垂仁天皇の近臣には、殉死の代わりに埴輪の陳列を考案した野見宿禰(のみのすくね)など、現在にも名を残す豪族がいます。
垂仁天皇の次代には、皇太子だったオオタラシヒコが皇位を継ぎました。第12代景行天皇です。
基本情報
- 指定:陵墓「菅原伏見東陵」
- 住所:奈良県奈良市尼ヶ辻町