石舞台古墳|日本の礎を築いた蘇我馬子の墓

奈良県明日香村。教科書でもお馴染みのこの写真。日本で最も有名なお墓の1つです。そして、このお墓に眠っていた人物の名も多くの人が聞いたことがあるでしょう。蘇我馬子。飛鳥時代の重要人物です。

蘇我氏の興隆

蘇我氏が台頭する前までは、物部氏が大和朝廷内で権勢を振るっていました。物部氏は軍事権や警察権を握っており、天皇家とも密接に結びついていた豪族です。

そうした中、馬子は、姉を入内させて欽明きんめい天皇の后にすることで、天皇家に近づきます。天皇と姉との間には皇子が生まれ、やがて用明ようめい天皇として即位。馬子は、「天皇外戚」の立場を獲得し、物部氏と肩を並べます。こうして馬子は、用明から続く、崇峻すしゅん推古すいこの代々の天皇に仕えて権勢を振るい、蘇我氏の全盛期を築くのです。

馬子の功績

馬子の功績は古代国家の礎を築いたこと、と言っても過言ではありません。馬子は、当時朝鮮半島から伝わったばかりの仏教を積極的に受け入れました。物部氏を始め多くの豪族が仏教受容に反対する中、天皇に仏教の受容を進言します。また、飛鳥寺を創建して、仏教の普及に力を注ぎました。日本仏教の土台は、このときの馬子の活躍によって築かれたのです。

飛鳥寺
金堂内には鞍作止利作の金銅釈迦如来坐像(重文・飛鳥時代)が安置されている。

馬子はまた、推古天皇や厩戸皇子うまやどのみこ(聖徳太子)とともに、日本の中央集権化を推進します。その一環として、冠位十二階を定めました。この制度によって、天皇に仕える臣下の身分を12階で表すとともに、これまでは一豪族ごとに固定されていた地位を個人ごとに与えることにして、有能な人材を登用できるようにしました。馬子は、古代国家の運営を担う官僚制の基礎をつくったのです。

馬子の悪行

古代国家の礎を築いた馬子は、一方で権力を手に入れるために非道な行いもしてきました。

蘇我氏と物部氏は、勢力が均衡する豪族同士として互いに敵対する関係にありました。仏教の受容を巡っての意見の対立は、その一面に過ぎません。馬子は、天皇家の皇位継承争いに乗じて、物部氏に戦を仕掛けます。馬子は、物部氏が擁立していた皇子2人を誅殺するとともに、馬子自身は泊瀬部皇子はつせべのみこ(後の崇峻天皇)を擁立し、物部氏を滅亡させました。

こうして即位した崇峻天皇も、馬子を疎んじる発言をしたことで、馬子の標的にされてしまいます。馬子は、偽りの儀礼の場に崇峻を呼びだし、白昼のもとその場で死に至らしめました。

馬子の墓

そのような馬子も70代になって、626年に死去。日本書紀には「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」と記されています。「大臣」とは当時大臣おおおみの位にあった馬子のこと。「桃原墓」とは、明日香村にある石舞台古墳いしぶたいこふんのことだと言われています。

飛鳥時代に入ると前方後円墳に代わって円形や方形の墓が造られるようになります。石舞台古墳は方形の墓です。古墳を上から見ると方墳であることが分かります。(正確には上円下方墳だと想定されている)

石舞台古墳

石舞台古墳は一辺50mの方墳。日本で一番大きな古墳(仁徳陵古墳にんとくりょうこふん。全長485m)と比べると小さく感じますが、用明天皇陵が一辺60m、崇峻天皇陵が一辺45mであることを見ると、馬子の墓は同時代の天皇に匹敵する巨大さ。馬子の権勢の大きさが伺いしれます。

石室天井

もともと土に覆われていた石室(棺を納める部屋)は、今は剥き出しになって露出しており、中に入ることもできます。使用されている石の総重量は2300トンと推定されており、天井を覆う2つの巨岩だけで140トンもあると言われています。

石室内部

墳頂に立つと、岩の大きさに圧倒されるとともに、剥き出しになった石室に物悲しさも感じます。日本史に残る功績と悪行をもつ蘇我馬子。功績に相応しい巨大な墓と、悪行に見合う露出した石室が、馬子の生涯を象徴しているようです。

基本情報

  • 指定:特別史跡「石舞台古墳」
  • 住所:奈良県高市郡明日香村