板付遺跡|稲作が定着した弥生時代の環濠集落

福岡県福岡市。住宅団地の真ん中に、弥生時代を代表する重要な遺跡があります。この遺跡から水田跡が発見されたことで、弥生時代の考古学研究は大きく見直されることになりました。

弥生土器の種類

弥生時代は、縄文時代の後、古墳時代が始まるまで続く時代です。その時代に作られた土器を弥生土器と言います。弥生土器は、弥生時代が進むにつれて朝鮮半島の影響や日本各地の影響を受け、形状や製法が少しずつ変化していきます。

考古学では、この変化に合わせて土器を区分し、弥生時代内の時期を特定するためのものさしとして利用しています。このものさしには、以下のように、発見された場所の名前が付けられています。ある遺跡から遠賀川式の土器が発見されたら、その遺跡は弥生前期の遺跡だと判断するのです。縄文時代から弥生時代に変わる時期のものさしは以下のとおりです。

  • 黒川式:鹿児島県黒川洞穴の特徴。縄文晩期を示す。
  • 夜臼式:福岡県夜臼遺跡の特徴。縄文晩期を示す。
  • 板付式:福岡県板付遺跡の特徴。弥生前期を示す。
  • 須玖式:福岡県須玖遺跡の特徴。弥生中期を示す。
夜臼式・板付式土器|板付遺跡弥生館
左が夜臼式、右が板付式。板付式土器口縁部が外反し、刻み目が付いている点。

弥生時代を塗り替えた水田跡

板付遺跡では時期の異なる2種類の水田跡が発見されました。1つは、板付式土器と一緒に発見された水田跡です。板付式は弥生前期を示すので、この水田を弥生前期水田と言います。

この弥生前期水田の下層から、もう1つの水田が夜臼式土器と一緒に発見されました。夜臼式は縄文晩期を示す土器です。この発見によって、稲作が想定よりも早い時期から始まっていることが分かり、弥生時代について大きく見直す必要が出てきました。

まず、この水田を「縄文水田」とはせず、縄文晩期と弥生前期の間に、弥生早期という新しい時代区分を設け、「弥生早期水田」としました。また、これに合わせて、縄文晩期のものさしだった夜臼式土器を、弥生早期のものさしに変更しました。これまで縄文晩期と考えていた時期が、実は稲作の始まっている弥生時代だったと判明したため、時代を繰り上げて土器のものさしを調整することにしたのです。

この表では弥生時代の開始年代を便宜的に紀元前500年に置いているが、この開始年代についてはいまなお議論されており、定説がない。早い説で紀元前1000年頃、遅い説で紀元前500年頃のものがある。

この弥生早期水田には堰、水路、畦といった灌漑水田の跡が見つかり、さらに石包丁など朝鮮半島由来の磨製石器も出土しました。稲作が開始された当初から、現在の水田に近い方法で米が栽培されていたことが分かったのです。

石包丁|板付遺跡弥生館

復元された集落の形

板付遺跡では、弥生前期水田とともに環濠や貯蔵穴などの集落跡も発見されました。これを弥生前期集落と言います。その下層から、弥生早期水田とともに掘立柱跡なども発見され、弥生早期集落の跡ではないかと考えられています。現在の板付遺跡では、弥生前期集落の跡が復元されており、弥生時代前期の稲作集落を体感できます。

弥生前期板付集落|板付遺跡弥生館(模型縮尺1/100)

集落

周囲を濠で囲む環濠集落で、南北110m、東西80mの卵型です。環濠の内側には掘り出した土で土塁が築かれています。集落内に住居跡は発掘できませんでしたが、福岡県江辻遺跡での発掘例を参考にして、6棟の竪穴住居が復元されています。1棟あたり5人程度住んだとして、30人くらいの規模の集落でしょうか。

復元竪穴住居

環濠

環濠

逆台形の濠として復元されていますが、当時は幅6m、深さ3mのV字型の壕が集落の周囲を巡っていたそうです。

どのくらいの日数をかけてこの壕を掘ったのでしょうか。30人規模の集落であれば、主に従事する壮年の男性は10人程度。1人が1日に1㎥の土を掘り上げたとして計算すると、270日もかかる土木作業だったそうです。

この時期はまだ集落同士の争いは少なかったとされているため、防御施設としての機能は小さかったと見られています。集落の内側と外側を区画する役割や、住人同士で土木作業を行うことによる結束づくりの目的が大きかったと考えられています。

貯蔵穴

弦状溝と貯蔵穴

環濠の内側には、弦状溝げんじょうこうと呼ばれる溝で区画された半月形のエリアがあります。このエリアでは貯蔵穴が発掘されました。貯蔵穴は、収穫物を入れた土器などを保管するための穴です。住居ごとに食料を保管するのではなく、一箇所にまとめて集落全体で管理し共同で使用したと考えられます。

板付集落のその後

板付遺跡では、弥生時代中期と見られる銅矛や銅剣も出土しています。このことから、板付集落を代表する有力な人物がおり、その人物の墓が近くにあったと考えられます。弥生時代中期になると、身分の階層化が進み、集落の優劣の生まれはじめていたのです。また、板付遺跡が当時貴重だった青銅器を保持できるほど有力な集落であったことが分かります。

大石
銅矛や銅剣が発見された墓の墓標と思われる石が、環壕の外側に安置されている。

その後、板付集落の環濠は埋められ、有力な集落は別の地域に移っていったと想定されています。ムラ(板付集落)の時代からクニ(奴国)の時代へと移行していくのです。復元された板付遺跡では、ムラというまとまりの中で、全員で協力して助け合いながら暮らしていた弥生前期の日本人を垣間見ることができました。

基本情報

  • 指定:国史跡「板付遺跡」
  • 住所:福岡県福岡市博多区板付
  • 施設:板付遺跡弥生館