三雲・井原遺跡|伊都国歴史博物館で見る、伊都国を治めた王たちの墓
中国の歴史書『魏志倭人伝』には、伊都国について「代々の王が統治していた(世々王有り)」と記載されています。現在の福岡県糸島市の三雲・井原遺跡は、この代々の王たちが眠る墓だと見られる遺跡です。この遺跡から、三雲南小路王墓と井原鑓溝王墓と呼ばれる豪華な墓が見つかりました。この2つの王墓を伊都国歴史博物館で見ていきましょう。
2つの王墓の時代
三雲南小路王墓(みくもみなみしょうじ)は弥生時代中期の後半(紀元前1世紀)の王墓だと考えられています。この時期は『漢書』に「倭人の社会は百余国に分かれていて、朝貢してきている」と記されている時代です。一方、井原鑓溝王墓(いはらやりみぞ)は弥生時代後期前半(紀元後1世紀)だと考えられています。こちらは『後漢書』に伊都国の隣の奴国(いまの福岡県福岡市と春日市)が後漢の皇帝から金印を下賜された時代です。
三雲南小路王墓
この王墓が最初に発見されたのは江戸時代でした。三雲村の清四郎が土塀を築くために土を掘ったところ土の中から甕棺が出てきたとのことです。このときの様子を福岡藩の国学者、青柳種信が記録していました。特に出土物について丁寧にスケッチしていたため、現在でも内容を追うことができます。このときに発見された甕棺は「1号甕棺」と番号を付けられました。
それから150年後。改めてこの場所を掘り返したところ、新しく別の甕棺が発見されました。この甕棺を「2号甕棺」と呼びます。そして、2つの甕棺は1つの墳丘の中にセットで埋葬されていたことや墳丘を囲う周溝の存在も分かったのです。
墓の構造
墳丘は32m✕31mの方形で、高さは2m以上はあったと考えられています。周溝の幅は2m程。この墳丘内には2つの甕棺しかなく、特定のペアを埋葬したものと考えられます。これまでも墳丘状の墓はありましたが、それらは集団墓でした。三雲南小路王墓ように、特定のペアだけを他の墓と区別して埋葬する事例は初めての発見でした。
副葬品
1号甕棺の副葬品の大部分は散逸し、現在になって発掘できた一部の現物しか残っていませんが、青柳種信の記録から下記のような副葬品があったと考えられます。
- 銅鏡(35面)
- ガラス製璧(8枚)
- 金銅四葉座飾金具(8個)
- 管玉(多数)
- ガラス製勾玉(3個)
- 銅矛(2本)
- 銅剣(1本)
- 銅戈(1本)
2号甕棺には、
- 銅鏡(22面)
- ガラス製璧片(1個)
- ガラス製勾玉(12個)
- ヒスイ製勾玉(1個)
銅鏡はすべて前漢時代の鏡で、伊都国が前漢との交易で入手したものだと考えられます。
また、金銅四葉座飾金具やガラス製璧は、中国で王侯クラスの人物の死に対して皇帝が送る貴重品であったことから、王墓に眠る人物と中国との深い関係が示唆されます。
この1号甕棺と2号甕棺の副葬品を比較すると、1号甕棺には武器類が多く、2号甕棺には武器が入っておらず勾玉などの装身具が多い、という違いがあります。このことから、1号には男性が、2号には女性が埋葬されていたと考えられ、この王墓に眠るペアは伊都国の王と王妃だったと推定されています。
井原鑓溝王墓
この王墓も江戸時代に発見されました。井原村の次一が水路の土手を掘ったところ、壺が出てきて、中には銅鏡や刀剣などが入っていたとのことです。残念ながら、こちらの副葬品については、すべて現物がなく、現在でも墓自体を発見できていません。しかし、三雲南小路王墓と同様、青柳種信の記録が残っており、それをもとに以下のような副葬品があったと考えられています。
- 銅鏡(20枚前後)
- 巴形型銅器
- 鉄刀
次一が発掘した壺は甕棺のことだと考えられています。銅鏡は前漢時代の末期頃のもので、出土した枚数が非常に多いことから、この墓も王墓だったと想定されています。
実物こそ発見されていませんが、近年になって旧井原村付近では王族のものだと想定される墓が複数発見され、合計5面の銅鏡が出土しました。これらを頼りに、王墓を探す地道な調査が続けられています。
世々王有り
伊都国には、弥生時代中期後半の三雲南小路王墓、弥生時代後期前半の井原鑓溝王墓があり、その後、3つ目の王墓として弥生時代後期後半の平原王墓が発見されました。
このように伊都国には代々の王がおり、中国と外交や交易を行っていたと考えられます。その豪華な副葬品からは、海外と交易を行う北部九州の国々の中でも強大な国力を持っていたことも想定できます。
伊都国歴史博物館では、王墓からの出土物(実物)を展示・解説しており、伊都国の威容を実際に感じることができます。
基本情報
- 指定:国史跡「三雲・井原遺跡」
- 住所:福岡県糸島市三雲 外
- 施設:伊都国歴史博物館(外部サイト)