観音寺城|六角氏による戦国時代の山城。実は織田信長よりも先駆的な戦国大名?
守護大名の館城から、戦国大名の山城へ
京都を中心に勃発した応仁・文明の乱後、これまで在京していた守護大名たちは各自の領国へ下り、在国するようになります。応仁の乱にともない各地でも反乱が相次ぎ、急速に力をつけてきた国人層を抑えるためです。守護大名は在国して自らが領国経営を行わなければならなくなったのです。
在国した守護大名たちは守護所と呼ばれる城を築きました。守護所とは幕府の御所をモデルにして、平地に築かれた城館です。外部の人間と会見する主殿(ハレの場)、大名とその家族が日常的に居所とする常御所(ケの場)、親しい人間と饗宴などを催す庭園付きの会所(ハレとケの中間)の3つの場所を主な構成要素していました。そして、守護所の周辺には守護大名の被官たちが屋敷を構えました。
しかし、こうした守護所は防御機能が不足しており、本格化していく戦乱の世を生き抜くためには不安が残ります。そこで、防備を強化するために館は山上に築かれるようになり、城の形態は館城から山城へと変っていきました。山城でも、山麓部に主殿(ハレの場)が、山頂部に常御所(ケの場)が築かれるなど、守護所の基本構成が踏襲され、山腹や山麓に被官たちが屋敷を構えました。
山城によって防備を強化し、戦乱の世にうまく適応していった「守護大名」はやがて「戦国大名」へと脱皮していきました。「室町時代からの伝統的な守護大名たちは守旧的で、守護代や国人の下剋上によって戦国乱世を早々にリタイアした」というイメージが強いですが、今川氏、武田氏、大内氏、大友氏、島津氏など守護大名出身の戦国大名は多数おり、島津氏や大友氏は安土桃山時代以降も生き残りました。
これら守護大名出身の戦国大名に六角氏がいます。六角氏はもともと近江を支配していた佐々木氏の系統で、佐々木泰綱が六角氏を名乗り南近江を、弟である佐々木氏信が京極氏を名乗り北近江を支配するようになります。応仁・文明の乱後、被官の浅井氏に北近江を乗っ取られた京極氏とは異なり、六角氏は戦国大名へと脱皮し、六角定頼のときに全盛期を迎えました。六角氏の居城である観音寺城は、定頼のもと1530~1550年頃にいまの状態に改修されたと考えられています。
六角氏によって築かれた観音寺城
観音寺城は繖山(きぬがさやま)に築かれた山城です。観音寺城にはいくつかの登城ルートがありますが、どれが当時の大手道だったのかは判明していません。今回は(伝)追手道と言われる道を登っていきます。ただし、この道は観光用に整備されていないため、登城にあたっては登山装備が必須です。安全に気を付けて登城してください。

山頂に至るルートは複数あり、中腹より上の大手道ははっきりしていない。伝池田丸に至る最も左手のルートが伝追手道とされる。
まず最初に見るべき場所は、御屋形跡です。現在、天満宮が建つこの場所は、「上御用屋敷」という地名が残るとともに城内でも有数の高石垣が築かれており、六角氏当主の「主殿(ハレの場)」にあたる施設があったと想定されています。

石垣上の曲輪には六角氏当主の主殿があったと想定される。現在は天満宮が建つ。
ここから始まる伝追手道を登ると山頂から南西方向に延びる尾根筋にぶつかります。ここには尾根筋に沿っていくかの曲輪がひな壇上に並んでいます。そのうちの1つには城内でも有名な高石垣が残っており、「大石垣」と呼ばれています。

ここから山頂部に向けて、(伝)池田丸、(伝)落合丸、(伝)平井丸と続き、(伝)本丸へと至ります。観音寺城の曲輪の多くには、六角氏の有力な被官の名前が付いています。彼ら有力な被官たち(重臣)も山城内に屋敷を構えたのです。


これらの曲輪の虎口(出入口部分)では、平虎口や食い違い虎口が形成されています。大きな石が用いられていますが、近世城郭で見られる桝形虎口は見られず、まだまだ単純な虎口に留まる点が観音寺城の特徴です。


しかし、これほどまでに石垣を多用した山城は観音寺城より前にはなく(古代山城を除く)、六角氏が最初に行った先進的な取り組みとして評価されています。


これらの曲輪からは調理具や陶磁器などが出土したため、山中で日常生活が営まれていたことが分かります。特に、本丸は六角氏当主の「常御所(ケの場)」にあたる場所だと想定されています。古文書では、観音寺城へ招かれた僧侶が定頼からもてなしを受けたという記録が残っており、それはまさにこの本丸だったのでしょう。

実は、この本丸は繖山の山頂ではありません。ここからさらに登ると、(伝)沢田丸に至り、ここが城内で最も高い場所にあたります。本丸よりも高所に被官の名前を持つ曲輪があるというのはとても不思議なことですが、六角氏当主と被官たちが完全な主従関係にあったわけではなく合議制に近い関係性だったことの現われだとも考えられています。


沢田丸から南東方向には「大土塁」と呼ばれる尾根が伸びており、この尾根に沿って多数の曲輪が築かれていました。その東端には(伝)布施淡路丸が築かれています。

このように観音寺城では、当主の屋敷が山麓の「主殿」と山頂の「常御所」に分かれており、さらに山腹部に被官の曲輪を多数持つという、戦国時代の山城の特徴が見られます。
実は戦国時代のパイオニアだった六角氏
再び城下まで降りてきて、麓にある「石寺」の集落を覗いてみましょう。ここはかつての城下町にあたり、中下級の被官が集住していたと想定されています。

当時の集落区画が残っていると言う。石寺集落から東海道新幹線を挟んで南側には老蘇(おいそ)の集落。
また、この集落には1549年に「楽市」が置かれました。楽市とは、税や役を免除して誰でも自由に商売できるようにし、町に商人や職人を呼び込む城下町振興策のことです。文献上では、日本で初めて楽市の置かれた城下町でした。

かつての城下町。城に向かう直線道は、大手道だったと想定される。写真左上に、大石垣が見える。
さらに、繖山から北西に少し離れた「安土」の集落に位置する常楽寺は、六角氏が管理する港津の役割を担っていました。かつては琵琶湖へと繋がる西ノ湖と接しており、水運の要衝地だったのです。

写真中央の丘陵が安土山。信長は常楽寺の港津機能を飲み込む形で安土城下町を形成した。
石垣を用いた築城、城下町への被官の集住、楽市による城下町振興、港津による水運交易など、近世に繋がるもろもろの政策は六角氏(六角定頼のころ)によって始められました。しかし、六角定頼の子(義賢)・孫(義治)の時代に織田信長に敗れ、これらの政策も信長に取り込まれたために、六角氏の先進性は信長の影に隠れてしまいました。信長によって敗れた今川氏や六角氏など守護大名出身の戦国大名は、守旧的で暗愚な印象を持たれがちですが、彼らも戦国乱世に適応し、新しい政策によって国内を治めようとしていたのです。
六角氏の場合、(伝)本丸より高い場所に被官の曲輪があるなど、被官たちを完全な主従関係のもとに置けていなかったことが想定されています。定頼の時代には求心力を維持していましたが、義賢・義治の時代の1563年、義治が有力な重臣の一人を城内で暗殺するという事件が起こり(観音寺騒動)、被官たちからの信頼を大きく損なってしまいました。この事件後の1567年、義賢と義治は被官たちから「六角氏式目」を結ばされ、当主としての行動を規定されてします。こうした中で被官たちは信長に切り崩されていき、翌1568年に信長によって観音寺城が包囲されたとき、義賢と義治は逃亡するしか手がありませんでした。こうして、六角氏は戦国時代の表舞台から消えてしまうのです。
基本情報
- 指定:国史跡「観音寺城跡」
- 住所:滋賀県近江八幡市安土町石寺
- 施設:滋賀県立安土城考古博物館(外部サイト)

