屋嶋城|天智天皇のもとで進む軍備の再構築

白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗した倭軍は北部九州に防衛網を整備するため、水城に加えて大野城、基肄城、長門の城の三城の築城しました。それから2年後、新たに3つの城を築かせました。金田城、屋嶋城、高安城の三城です。これら3つの城はどういった背景で築城されたのでしょうか。当時の朝鮮半島情勢とともに見ていきます。

大野城築城後の情勢

663年、白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗した倭軍(日本軍)は北部九州に防衛網を整備するため、翌664年に水城を築堤。さらに、665年には筑紫に大野城と基肄城を、長門にも城(城名不明)を築城しました。非常事態における緊急性の高い水際対策でした。

しかし、唐の真の目的は高句麗を滅ぼすこと。唐軍は南下せず、矛先を高句麗に向けます。当時の唐にとって、倭国の軍事力は侮り難く、安易に海を渡って攻め入ることはしませんでした。当面は外交を持って牽制を仕掛けてきます。

665年にはさっそく九州に劉徳高という使者を送ってきました。このときの使節団は254人にも及ぶ大規模なものでしたが、倭国首脳部の中大兄皇子や中臣鎌足たちも負けてはおらず、山背国で大規模な閲兵を催して使者たちに軍事力の片鱗を示したようです。

このときどのようなことが話し合われたのか、史書には記録されていませんが、かなりシビアな交渉が繰り広げられたのではないでしょうか。中大兄皇子たちは、使者たちを丁重にもてなしたあと、倭国からも遣唐使をつけて使者を唐へ送り返しました。付き従った遣唐使たちは、翌666年、唐三代目皇帝による封禅の儀式(天と地に即位を知らせる儀式)に出席したと見られており、倭国は唐に対して形の上では恭順の姿勢をとったようです。

唐と直接睨み合っている高句麗は、この後しきりに倭国に使者を送ってくるようになります。援軍を要請するためでしょう。倭国は難しい局面に立たされますが、結局高句麗を見捨てることになりました。唐は高句麗への攻撃を開始します。

当面の危機を脱した倭国は、この隙に中央集権化を推し進めました。667年に近江への遷都を断行し、668年には中大兄皇子が即位して天智天皇となります。こうした中で、新たに3つの城が築かれました。金田城(対馬)、屋嶋城(讃岐)、高安城(大和)です。

屋嶋城

このときの城のひとつ屋嶋城は、讃岐国屋島に築かれました。現在、屋島は陸続きになっていますが、当時は名前の通り瀬戸内海に浮かぶ島でした。メサ地形と呼ばれるテーブル状の台地で、横から見ると台形の山が南北に2つ連なっていることが分かります。

屋島|西から撮影
左が北嶺、右が南嶺。

南嶺(標高292m)の方が北嶺(標高282m)よりもやや高く、南嶺からは特に瀬戸内海西方をよく臨むことができます。

屋島南嶺の西側眺望|西尾根展望台から撮影
屋島南嶺の東側眺望|屋島スカイライン展望スペースから撮影

南嶺の南西斜面に大規模な門跡が見つかり、7年ほどの歳月を経て往時の姿に修復・復元されています。

屋嶋城|西尾根展望台から撮影
写真左上が復元された城門。

この城門では、入り口にわざと2.5mほどの石積みの段差を設けて敵の侵入を阻む造りをとっていました。このような造りを懸門(けんもん)と呼び、朝鮮半島由来の構造とのこと。

門扉を突破しても、目の前には岩盤がせりたち、左手に進行方向を曲げないと城内に入り込めない導線になっていて、敵に横矢をかけることが可能。これも朝鮮半島由来の構造で、甕城(おうじょう)と呼ばれます。

懸門
城門をくぐるために石垣を登る必要がある。
甕城
門扉をくぐっても目の前には岩盤があり左折する必要がある。

ここから見下ろす現在の景色は埋め立てられた市街地になっていますが、当時は海面を挟んで向こう側に讃岐の本土が見えていました。

城門からの眺望

この他、島内では南嶺の北面に数箇所石塁や門跡の遺構があるようです(場所が分からず、見学できなかった)。特に、浦生地区の石塁からは600年代後半を示す平瓶が出土し、屋嶋城の築城年代が日本書紀の記載通りであることを示す一つの物証になっています。

平瓶|高松市埋蔵文化財センター
杯蓋・杯身|高松市埋蔵文化財センター

屋嶋城の築城後

天智天皇は、即位の前後に群臣を連れ立って二度も猟遊に出かけました。喫緊の国難もこの頃には去っていたのでしょうか。天智天皇の行動には王者の余裕すら滲み出ています。

その後、屋嶋城と同じ時期に築かれた高安城は早くも改修の計画がもちあがるものの、民衆の疲弊から計画を見送るなど、水城・大野城・基肄城の築城時に見られた緊急さはありません。この年の末、結局高安城は改修されるのですが、稲穀を収納するためだったようで、防備の強化ではなかったようです。(籠城のための備蓄とも言われる)

このような経過を見ると、近江遷都後に築城された金田城、屋嶋城、高安城の築城は、天智天皇のもと中央集権化を図るために軍備を再構築する一環だったのではないでしょうか。670年には日本初の戸籍(庚午年籍)を作成。全国的な徴兵に向けて、人民把握の最初の一歩を踏み出しました。こうして倭国は、唐軍の侵攻を恐れた緊急の防衛網構築から次のステージに進んでいきます。

668年に唐は高句麗を平定。その祝福を伝えるため、倭国は670年に遣唐使を派遣します。翌671年には、白村江の敗戦時に捕虜となっていた倭国の兵たちが返還されました。唐は、倭国と交戦するのではなく、今後対立が激化する新羅を牽制するためにも友好な関係の構築しようとしていたようです。

こうして、国外の難が去り、天智天皇のもと中央集権化を進めていた矢先、天皇自身が防御(671年)。その翌年、天智天皇の弟である大海人皇子と、息子である大友皇子が相争う古代最大の内乱、壬申の乱が勃発するのです。

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