川原寺跡|飛鳥時代の謎の寺院。一塔二金堂の巨大寺院は誰が創建した?

中金堂・西金堂・五重塔の伽藍配置

岡寺駅から県道155号線を東(石舞台古墳や飛鳥宮跡の方)へ向かうと、飛鳥川を渡る手前で左手に広場が見えてきます。かつてこの広場には飛鳥時代の寺院、川原寺が建っていました。現在も、川原寺の後継寺院として弘福寺が法灯を引き継いでいます。

川原寺跡全域|橘寺側(南側)から撮影
左右に走る道路は県道155号線。右(東側)には飛鳥川を挟んで飛鳥宮跡がある。

川原寺跡は発掘調査が進んでおり、多くの遺構が発見されています。まず県道に面して位置する南大門跡です。後世の破壊を受けて柱位置などの詳細は分かっていませんが、想定復元されています。ここから左右に大垣が伸びていて、寺の南限を示していました。

川原寺|飛鳥資料館(復元模型)
一番手前が南大門。左右に大垣が伸びる。中門から伸びる回廊は中金堂に取り付き、西金堂と五重塔を囲む「一塔二金堂」の伽藍配置。

南大門を潜ると中門です。中門からは単廊の回廊が左右に伸び、奥に見える中金堂跡(弘福寺本堂)に取り付いていました。

中門跡
東側回廊跡

中金堂跡には現在の弘福寺本堂が建っていますが、飛鳥時代当時のものと思われる礎石がいまでも残っています。この礎石には大理石が使われていて、かなり特殊な事例として川原寺の格式の高さを表しているそうです。なぜか「瑪瑙石」と呼ばれていますが、瑪瑙ではなく大理石(石灰岩が変成した岩石)です。

中金堂跡礎石
中金堂の礎石実物。「瑪瑙石」と呼ばれる礎石だが、実際は大理石で出来ている。

回廊の中には西側に西金堂、東側に五重塔を配置しています。西金堂の入口が塔側(東側)を向くのが特徴です。

西金堂跡|東側から撮影
入口が東側を向くのが特徴。
塔跡|西側から撮影
3間×3間の五重塔と推定される。

このように塔・西金堂・中金堂を主要な堂宇とする「一塔二金堂」式の寺院は、近江大津宮に建立された南滋賀廃寺などでしか見られない特殊な様式で、特に「川原寺式伽藍配置」と呼ばれます。中金堂の背後には講堂が備わり、この講堂の北東西の3面を僧坊が囲っていました。

講堂跡|南東側から撮影
東側僧坊跡|南側から撮影

これらを南大門から伸びる大垣が取り囲んでいて、寺院全体では南北約300m・東西約210~260mの寺域を誇っていたことが分かっています。この大きさは当時の飛鳥寺に匹敵するものでした。

川原寺周辺|飛鳥資料館(復元模型)
飛鳥川を挟んで対面に飛鳥宮。宮の北側(写真上)に飛鳥寺。

川原寺の裏山からは大量の塼仏(せんぶつ)が見つかりました。塼仏とは仏像が彫刻されたタイルのことで、使用方法は定かではありませんが、仏堂の壁に貼り付けて内部を荘厳化していたのではないかと見られています。

塼仏|飛鳥資料館

創建の由来が明かされていない「謎の古代寺院」

これだけ巨大な川原寺ですが、正史には創建の由来が記されておらず、「謎の古代寺院」とも呼ばれます。『日本書紀』に最初に現れるのは673年(天武天皇2年)で、川原寺に写経生が集められ一切経の書写が執り行われたというので、この頃には堂宇が完成していたようです。

では寺の創建はいつ頃始まったのでしょうか。実は川原寺の遺構の下からは別の建物跡が見つかっていて、この遺構は斉明天皇の川原宮跡だと見られています。655年(斉明天皇元年)斉明天皇は重祚して皇位に返り咲くと「板蓋宮(いたぶきのみや)」に入りましたが、直後に焼失してしまったため、いったん仮宮として遷ったのが川原宮です。翌年、斉明天皇は再建した「後岡本宮(のちのおかもとのみや)」に遷ったため、川原宮は使われなくなりました。その跡地を活用して造られたのが川原寺だと想定されているのです。そのため、川原寺は656年から673年の間に創建されたと考えられています。

661年、斉明天皇は朝鮮半島の情勢悪化に伴い軍事遠征を行いますが、遠征先の九州の地で病没してしまいます。天皇の亡骸は息子である中大兄皇子によって飛鳥まで移送され、その殯の儀式は川原の地で行われました。そういった事情から、中大兄皇子が母・斉明天皇の冥福を祈って建立したのが川原寺ではないか。というのが「謎の古代寺院」に対する通説です。

母のために中大兄・大海人両皇子が創建した?

斉明天皇の死後、中大兄皇子はすぐに即位せず称制をとり朝鮮出兵の指揮やその戦後処理などを行います。そして、朝鮮半島情勢が落ち着いたのを見計らい、667年(天武天皇6年)に飛鳥から近江に遷都し、自身も天智天皇として即位しました。飛鳥の川原寺と近江の南滋賀廃寺は天智天皇による遷都を媒介として共通の伽藍配置を取るようになったのでしょう。両寺から出土する瓦は複弁蓮華文という共通の紋様も使っていました。

複弁蓮華文軒丸瓦|飛鳥資料館
蓮華の花弁が8枚あり、1枚あたり2つの子葉を持つため特に「複弁八葉蓮華文」と呼ばれる。川原寺は日本で最初にこの文様が使われた例で、以降寺院瓦の主要な文様になっていく。

こうして建立された川原寺は天智天皇の後に即位した天武天皇の時代にも度々登場します。天武天皇は斉明天皇のもう一人の息子ですが、特に晩年の685年(天武天皇14年)天皇が川原寺を訪れて僧侶たちに稲を賜っているほか、686年(朱鳥元年)天皇が重篤に陥ってからも川原寺で薬師経を読ませたり百官を遣わして燃灯供養を行ったり親王以下を集めて病気平癒のために誓願をしたりと、天武天皇と川原寺との深い関わりが記されています。川原寺は、中大兄皇子(天智天皇)だけでなく大海人皇子(天武天皇)も含めた息子2人が母のために建立した寺なのかもしれません。

斉明天皇家系図

天武天皇の没後、持統天皇の時代も川原寺は四大寺(他は大官大寺、薬師寺、飛鳥寺)に数えられるなど勅願寺としての寺格を誇っていました。しかし、平城遷都時に他の三大寺がこぞって新京に移転したのに対して、川原寺だけはなぜか飛鳥に留まり、平安時代に火災にあって以降寺勢が衰え、しだいに荒廃していきました。

基本情報

  • 指定:国史跡「川原寺跡」
  • 住所:奈良県高市郡明日香村川原
  • 施設:飛鳥資料館(外部サイト)