宮跡庭園|平城京左京三条二坊にあった離宮庭園と長屋王の邸宅
平城京の基本構造"条坊制"
「宮跡庭園」の説明に入る前に平城京の構造について簡単に触れておきます。710年に都となった平城京は東西5.9km・南北4.8kmの巨大な都市でした。南端中央には羅城門が開き、そこからまっすぐに朱雀大路(幅74m)が伸びています。朱雀大路の北端には朱雀門がそびえ、門の向こうは平城宮の敷地です。平城宮から南側を向いて、朱雀大路の左側(東側)を左京、右側(西側)を右京と呼びます。
平城京は朱雀大路を中心に縦横の道路が碁盤の目のように張り巡らされていて、道路によって区画された東西方向の並びを「条」、南北方向の並びを「坊」と呼びます。具体例で言うと、東西方向に延びる五条大路と六条大路に挟まれた帯状の東西区画を「五条」、南北方向に延びる西一坊大路と西二坊大路によって挟まれた帯状の南北区画を「二坊」と呼ぶわけです。
少しややこしいのですが、「右京五条二坊」のような東西・南北の大路に囲まれたほぼ正方形の区画も「坊」と呼びます。坊内はさらに南北3本、東西3本の小路によって16区画に分かれていて、その1つ1つを「坪(または町)」と呼びます。各坊内では平城宮と朱雀大路に最も近い坪を1番として、そこから南方向に4番まで付け、その隣を5番としてさらに北方向に6、7・・・と番号をふっていくようになっていました。
このように条・坊・坪を示せば京内の位置を指すことができるようになります。例えば、五条と西二坊の重なる区画の中の三坪は「右京五条二坊三坪」と言った具合です。こういった住所表示の仕組みを「条坊制」と言います。ちなみに「右京五条二坊三坪」は薬師寺のある場所です。
余談ですが、平城京の条坊制では大路の中央軸が等間隔になるよう地割を行ったため、幅の広い大路に接する坪ほど狭くなってしまいました。坪で言うと6・7・10・11>2・3・5・8・9・12・14・15>1・4・13・16の順に敷地面積が小さくなり、坊内の坪間で差が生じてしまったのです。平安京ではこの設計ミスが改善されました。
さて前段はこのあたりにして、今回のテーマは「左京三条二坊」です。この住所表示から「二条大路、三条大路、東一坊大路、東二坊大路に囲まれた坊」であることが分かります。この坊内にある奈良市役所には平城京全体を復元した模型があるのでぜひご覧ください。条坊制の敷かれた都の様子がよく分かります。
奈良時代中期の庭園
この「左京三条二坊」内の「六坪」で奈良時代の庭園遺跡が発見されました。現在は、奈良時代中期(聖武天皇の治世末期から孝謙天皇の時代)の状態で復元整備されています。
庭園の中心にはかなりの技巧を凝らした池が配置されています。もともとこの坪内を流れていた菰川(こもがわ)の流路を活用しつつ、底に粘土を敷き、その上に石礫を敷き詰める大造営を行っていました。池内には大きな石組を配置してアクセントとし、水際には玉石を配して勾配に沿って州浜を形成するという、とても美しい園池に仕上がっています。
池は北から南へ向けて流水する仕組みも整備されていました。池の北側の井戸から木樋を通して給水し、池の南側の木樋から排水しています。給水も排水もいったん枡内に滞水する仕組みになっていて、池内の水量をコントロールしていたようです。
池の西側では、池を鑑賞するためのものだと見られる東向きの建物跡が出土しました。南北6間・東西2間、切妻造の掘立柱建物です。
そのほか、坪内の北西にもいくつかの建物の遺構が発見されています。鑑賞用建物から見えないようにするため、木塀で目隠ししていたようです。
これら池や建物群からなる庭園は平城宮と近接した位置にあることから、離宮のようなものだと考えられています。「宮跡庭園」という名称はこの考えから来ています。一方、三条には親王や上級貴族の邸宅が多く立地することから、彼らの邸宅の一部ではないかという考えもあります。どちらにしろ、孝謙天皇の時代前後、大炊王(おおいおう。のち淳仁天皇)、藤原仲麻呂、橘奈良麻呂、吉備真備といったこの時代の主要人物たちがこの庭園を鑑賞し、曲水の宴などを楽しんだことでしょう。
奈良時代前期に活躍した長屋王とその邸宅
「左京三条二坊」には庭園の他にも奈良時代前期の重要な人物の邸宅が見つかっています。現在、庭園の北側「一、二、七、八坪」に相当する場所には大型商業施設がありますが、かつてそこには長屋王が住んでいました。
長屋王は、天武天皇の子(高市皇子=たけちのみこ)を父とし、天智天皇の子(御名部皇女=みなべのひめみこ)を母とする、当時最も血筋のよい皇族でした。さらに、草壁皇子(天武天皇の子)と阿閇皇女(天智天皇の子。即位して元明天皇)の娘である吉備内親王を正妻に迎えていたため、当代の天皇であった聖武天皇よりも毛並みのよい人物だったと言えます。
この長屋王の邸宅は4坪(およそ5.5ha)にも及ぶ広大な敷地を持っていて、敷地南側にあった内郭と北側にあった外郭から構成されていました。内郭は長屋王の居住区間で、巨大な正殿をはじめ、妻子の住む居宅や来客用の建物や庭園がありました。外郭は家政機関の建物群が位置するエリアです。
家政機関とは、家の事務や雑用を取り仕切るよう国から支給される組織で、宮内省の縮小版のようなものです。外郭から発見された大量の木簡は家政機関の内容を詳細に示しており、「長屋王家木簡」として重要文化財に指定されています。
長屋王は百万町歩開墾計画や三世一身の法など土地の開拓を推進しつつ、蝦夷の征討などを機敏に遂行し、724年には左大臣にまで昇り詰めました。しかし、聖武天皇や藤原氏一族と軋轢を生み、その血筋の良さから危険視もされたことで、729年に謀反の冤罪で自死に追い込まれてしまいます(長屋王の変)。
長屋王の没後、その邸宅跡は聖武天皇の皇后・光明子の邸宅になったと考えられています。同じ坊内の六坪がいま復元されているような流麗な庭園に整備されたのも、長屋王没後のことです。
基本情報
- 指定:特別史跡「平城京左京三条二坊宮跡庭園」
- 住所:奈良県奈良市三条大路1丁目
- 施設:平城宮いざない館(外部サイト)