水落遺跡|飛鳥時代の時計台跡。日本で最初に時刻を告げた人物は中大兄皇子だった!

飛鳥時代の時計台は水を使った精密装置

甘樫丘から飛鳥川を挟んで東側すぐの「水落遺跡」では飛鳥時代に漏剋が築かれていました。漏剋とは水を使って時間を計る設備、いわゆる水時計のことです。当時の漏剋を推定復元した模型が飛鳥資料館に展示されています。

四段式漏剋|飛鳥資料館(復元模型)
水落遺跡の遺構や中国の文献などにもとづき復元された飛鳥時代の漏剋。

漆を塗った升が積み上げられていて、升同士がアーチ状の銅管でつながっており、サイフォンの原理によって上の升の水が下の升へ銅管を伝って流れていきます。4段に重ねることで(4段式)一定の速度で水が移動していくようにし、最下段(5段目)の木箱の水位の上昇を読み取ることで時間を計測する仕組みです。水位を図ったあとはその下の木槽に排水されます。古代中国でこの仕組みの漏剋が使用されており、日本でも同様のものが使われていたと想定されています。

基壇跡|南東側から撮影

水落遺跡ではこの漏剋自体が出土したわけではありませんが、その設置場所に相応しい遺構が発見されています。まず正方形の強固な基壇です。大きさは20m四方程度ですが、周囲に貼石が施されているのに加え、基壇上の柱を支えるため礎石を地中に埋めており、さらにそれらの礎石を列石でつなぐ「地中梁」を築いていました。柱が動いたり崩れたりしないように、強固な基壇をつくる必要があったと考えられます。

地中梁|北西側から撮影

基壇の中央には漆塗りの木槽を設置した痕跡が見つかり、さらに基壇内からは銅管や木樋が出土しました。これら基壇の遺構や出土した木樋・銅管などから、水を使った精密な設備が置かれていたと想定され、それが漏剋だったのではないかと考えられるようになったのです。

銅管|飛鳥資料館
木樋を通って引き込まれた水は銅管を伝って地上へ汲み上げられた。
木槽跡・木樋跡|東側から撮影
水は東側(写真手前)から引き込まれて漏剋のために汲み上げられたほか、一部は北側(写真右側)の石神遺跡に送水された。排水は東側(写真奥)の飛鳥川へ。

基壇の上の柱建物の実態は不明ですが、2階からなる楼閣風の建物が想定され、時刻を知らせる鐘なども設置されていたことでしょう。

楼閣の様子|水落遺跡案内板
楼閣内の様子|水落遺跡案内板

天皇による時間と領土の支配

この漏剋のことが日本書紀に記されています。斉明天皇6年(660年)「中大兄皇子(のちの天智天皇)が初めて漏剋をつくり、民に時刻を知らせた」と、天智天皇10年(671年)「漏剋を新しい台に置き、時刻を知らせ、鐘や鼓を鳴らした。この日、初めて漏剋を使用した。この漏剋は、天皇が皇太子のころにご自身で製造されたものである」の記録です。中大兄皇子は自分で作った漏刻を飛鳥宮に設置し、近江遷都にともなう即位の後に大津宮へ移設したようです。

古代中国では、時間と領土は皇帝が支配するものだと考えられていました。中大兄皇子は、中国の思想を参考に「この国においては天皇が時間を支配していく」という意図をもって漏剋を設置したのでしょう。漏剋の製造自体にも遣唐使たちによる知見が生かされていたはずです。中大兄皇子が飛鳥宮で打ち鳴らした鐘の音はどのあたりにまで届いていたのか、想像を膨らませるのも一興です。

明日香村北部|石神遺跡から北側を撮影
中央に香久山、奥に耳成山が見える。

天皇による「時の支配」が進むとともに「領土の支配」が大きく進展したのも中大兄皇子の時代です。斉明天皇4年(658年)から6年(660年)まで、3度も北方に遠征し東北の蝦夷(えみし)や北海道の粛慎(あしはせ)を引き連れて凱旋しています。飛鳥に連れてこられた蝦夷のうち男女二人は659年の遣唐使船に乗って唐の皇帝に謁見させられました。このとき遣唐使は「天皇は列島の東北部を支配しており、そこに住まう蝦夷たちは毎年天皇に朝貢しています」と豪語し、唐の皇帝に対して天皇が領土の支配をも行う存在であることをアピールしたようです。

異民族の服属儀式に使用された須弥山石と石人像

蝦夷人や粛慎人は飛鳥宮で饗応を受け、天皇への服属を誓いました。この服属の儀式が行われた場所が、水落遺跡のすぐ北側に位置する石神遺跡です。日本書紀には斉明天皇5年(659年)に「甘樫丘の東の川のほとりに須弥山(しゅみせん)を作り、陸奥と越の蝦夷を饗応した」、斉明天皇6年(660年)に「石上池のほとりに須弥山をつくり、粛慎を饗応した」という記録が残っています。ここに記された須弥山と想定されるものが、石神遺跡から出土した「須弥山石」と呼ばれる石造物です。

須弥山石■重文・飛鳥時代|飛鳥資料館
表面には浮き彫りがあり、須弥山の周囲を巡る七重の山々を表現したものだと想定されている。

須弥山の本来の意味は仏教世界の中心にそびえる山のことですが、飛鳥の地に須弥山を模した石造物を置き、その元で蝦夷や粛慎を饗応することで「天皇がいるこの地こそが世界の中心である」ということを誇示したのかもしれません。

水落遺跡・石神遺跡|飛鳥資料館(復元模型)
北側から見た図。

石神遺跡では須弥山石の他にも、奇妙な顔の男女が抱きあう像も出土しました。この石人像も異民族を饗応するときに使用されたと考えられています。これら石造物の内部はともに導管が通され、水が流れるようになっていました。

須弥山石|飛鳥資料館(復元)
出土した須弥山石は3段分だったが、内部の導水構造から元は4段から成っていたと想定されている。
石人像|飛鳥資料館(復元)
男女の老翁の口から水が出る構造になっていた。実物(重文)は館内に展示されている。

実は、水落遺跡から石神遺跡へは地中を木樋(暗渠)が通っていて水を送り込めるようになっていました。引き込まれた水は水落遺跡の漏剋で利用されただけでなく、石神遺跡の須弥山石と石人像にも引き込まれて異民族を服属させる儀式に使われたようです。水落遺跡の基壇が必要以上に強固に作られた理由は、ここに漏剋や鐘が設置されていただけでなく、石神遺跡での饗応に利用するために巨大な貯水槽も設置されていたからではないかとも考えられています。

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