大坂城|豊臣家の城を埋めて築いた徳川家の城【天下普請の城】

豊臣家の滅亡

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に就き、事実上の天下人となりました。さらに、子の秀忠にあっさりと将軍職を譲ることで、徳川家による将軍世襲を世に示します。その後家康は駿府城に隠居しますが、大御所として天下に君臨し続けました。一方、豊臣秀頼は、秀吉の築城した大坂城を居城とし、衰亡していく威信を保つため京都市中の寺社へ寄進を行ないつつ、徳川方との決戦に備えて全国から浪人を召し抱えます。

こうした豊臣方の動きに対して徳川方が仕掛け、大坂の陣が勃発。1614 年の冬の陣で、豊臣方は出丸を活用して徳川方を痛めつけたものの、徳川方による最新鋭の大砲に悩まされたことで、大坂城惣構の堀を埋める条件を飲み、停戦協定を結びます。しかし、徳川方はこれに乗じて二の丸の堀まで埋めてしまったため、1615年に夏の陣が起こります。丸裸になった大坂城はもはや籠城の用をなさず、城から打って出るしかなかった豊臣方は徳川方の大軍の前に敗れ、秀頼は天守に火をつけて大坂城内で自刃しました。秀吉の築いた巨大城郭は、豊臣家の滅亡とともにその役目を終えたのでした。

徳川家の天下

1616年に大御所家康が死去したのち、将軍の秀忠は大坂を幕府の直轄地とし、その周辺に親藩や一門の大名を配置しました。そして、近畿を軍事拠点とするために、その中心となる大坂城の再築に取り掛かったのです。

秀忠は「堀の深さや石垣の高さを豊臣時代の倍にせよ」と、豊臣期大坂城を丸々埋め尽くし、その盛土の上に徳川期の城を築くことにしました。徳川の天下を世に知らしめるには、十分すぎるほどの演出です。豊臣家の痕跡を完全に消し去ろうとする、秀忠の執念深さすら感じられます。もはや再築ではなく、新築と言えるほどの大規模な築城となり、西国の大名を中心に多くの大名が動員されました。この天下普請による築城工程は大きく3期に分かれ、城の北側から順次築かれていきました。

大坂城|Google Earth
北西の上空から。二の丸への入り口は、画像右から時計回りに大手口、京橋口、青屋口、玉造口。

第1期(1620年~)

第1期では、北・東・西の外堀、西の丸や二の丸の築造が47家の大名によって行われました。北外堀と東外堀は加賀金沢藩の前田家、越前北庄藩の松平家などの諸大名によるもの。築造時、東・北の外堀はひと続きの堀でしたが、大正時代に東堀が埋め戻され、北外堀と別々になりました。平成になって東外堀は現在の姿に復元されましたが、両堀は別々のままです。

東外堀|青屋口出枡形内から
北外堀|青屋口にかかる橋上から撮影

西堀は福岡藩黒田家や小倉藩細川家など九州の諸大名によって築造されました。西外堀には西の構えとして3つの櫓が築かれ、そのうち乾櫓と千貫櫓が再築時のまま現存しています。特に、千貫櫓は大手橋に対して横から矢を射掛けることができ、防御の要となる櫓でした。

乾櫓■重文・江戸時代(1620年)
千貫櫓■重文・江戸時代(1620年)

第2期(1624年~)

第2期では、本丸内部と本丸を囲む内堀の築造が行われ、58家の大名が動員されました。現在に残る巨大な天守台はこのときのものです。その上には、層塔型五重5階穴蔵(地下1階)付きの天守が建築されましたが、40年に満たず焼失しました。昭和になって現在の天守閣に復元されたとき、徳川期の礎石はすべて取り外され、そのうち2石のみ天守閣入口の脇に展示されています。小天守台には再築当初から小天守は建築されず、代わりに井戸が掘られ、1626年の覆屋が現存しています。

徳川期天守礎石
井戸屋形■重文・江戸時代(1626年)

本丸を囲む空堀と東西の内堀も第2期の築造です。東内堀にそびえる屏風のような石垣は日本一の高さだと言われており、多聞櫓によって連結された4棟の三重櫓が堀を見下ろすように建っていたそうです。残念ながら、江戸時代最後の年にすべて焼失してしました。

本丸東面石垣・内堀|青屋口傍から南側を撮影
空堀|桜門から東側を撮影

西内堀には隠し曲輪が面しています。本丸から山里丸へ下る途中の左手に目立たない入り口が残っており、ここから隠し曲輪に入ることができます。ここの石垣は伊予大洲藩の加藤家や丹波園部藩の小出家などによって築造され、彼らを示す石の刻印がいまでも良質に残存しています。

隠し曲輪
本丸石垣の刻印石|隠し曲輪内

第3期(1628年~)

第3期では、57家の大名によって城の南側が築造されました。南外堀は、他の外堀より遅れてこのときに築造され、大手口や玉造口の土橋とともに堀に面した7棟の櫓が建築されました。このうち一番櫓と六番櫓で再築当初のものが現存しています。

一番櫓■重文・江戸時代(1628年)
六番櫓■重文・江戸時代(1628年)

こうしてわずか10年程度の期間で徳川期大坂城は完成し、豊臣期の城郭は地上から完全に姿を消したのでした。

豊臣家の痕跡

丸々埋め立てられてしまった豊臣期大坂城。わずかですがその痕跡を地上で確認することができます。

城郭北西に位置する(西外堀の北側・北外堀の西側の)京橋口近くで、大阪府立男女共同参画・青少年センター(通称「ドーンセンター」)の建設が行われた際、地中から石垣が発見されました。大小不揃いの石による野面積みで、豊臣期大坂城のものです。この石垣は完成なったドーンセンターの北面に移設され、復元展示されています。また、近くの大手門学院小学校の建設でも同様の発見があり、石垣が移設復元されています。

豊臣期石垣復元|ドーンセンター北面
豊臣期石垣復元|大手門学院小学校東面

このあたりは豊臣期大坂城の三の丸だと考えられていましたが、こうした出土状況から京橋口を守る馬出し曲輪だと分かってきました。これら石垣から成る堀は、晩年の秀吉によって築かれて大坂冬の陣後に家康によって埋め戻されてしまったものです。

また、上述の隠し曲輪から空堀の方を眺めると、本丸石垣の天面が一段低くなっている部分を見ることができます。これは、豊臣期大坂城の本丸水堀が現在の徳川期本丸側にえぐり込むように掘られていた名残りとのこと。この堀は徳川期の再築の際に埋め立てられてしまうわけですが、このように石垣が一段下げて築かれた理由については分かっていないようです。

本丸石垣・空堀・内堀|隠し曲輪から
左手の本丸石垣で天面が一段下がっている部分が、豊臣期水堀が通っていた跡。

徳川の天下を世に知らしめるため、豊臣期大坂城を丸々埋め立て、その上に再築された徳川期大坂城。昭和の時代に再建された天守閣が大阪市のシンボルとなっている影で、二の丸の隅にいぶし銀のように佇む再築当初の櫓は、見る者を圧倒する攻撃性を感じます。明治維新後150年がたった現在でも徳川の天下を主張しているようにも見えます。

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