鹿苑寺|室町幕府の黄金期を象徴する金閣!足利義満による公武合体とは?

武家・公家の頂点に君臨する足利義満

「室町幕府」の名称は、3代将軍足利義満が1378年(永和4)に築いた将軍御所に由来します。初代足利尊氏(たかうじ)は二条高倉亭、2代義詮(よしあきら)は三条坊門邸を御所としましたが、3代義満(よしみつ)は一条の外れに御所を築きました。この御所は室町小路に面していたため「室町第(むろまちてい)」と呼ばれるようになります。室町第は四季ごとに色とりどりの花木が植えられたため「花の御所」とも呼ばれ、足利義満の威光を示す象徴的な場所となりました。以降、足利将軍家の当主は「室町殿(むろまちどの)」と呼ばれ、後に幕府の名称、ひいては時代の名称になっていきます。

このように幕府の名称ともなる御所を築いた足利義満は、武家社会において他の武家を凌駕する勢力を確立し、公家社会にも進出して朝廷の権限を取り込みました。その結果、幕府権力は安定期を迎え、義満は、戦乱のない平和な時代を築きました。

まず、公家社会では、朝廷の権威を再興するために経済的な支援を行う代わり、高い官位(官職と位階)を獲得していきます。1373年(応安6)16歳で従四位下を賜ったのを皮切りに、1375年(永和元)18歳で従三位となって公卿に列し、1380年(康暦元)に23歳で従一位に昇ります。義満は、単に経済支援を餌に官位を獲得するという上辺に留まらず、詩歌管弦や書の教養を身に着け、有職故実を学んで朝廷の儀式の進行役を務めるなど、公家の文化に熟達していきました。1381年(永徳元)には室町第に御円融天皇の行幸を実現し、5日間の滞在期間中に舞や蹴鞠を楽しみ、詩歌会が盛大に開催しました。天皇による武家邸宅への行幸は、武家政権が成立した鎌倉時代以降、初の出来事でした。

一方、武家社会で義満は、尾張・美濃・伊勢に守護職を持つ土岐氏(1389年)や山陰地方を中心に11か国の守護職を持つ山名氏(1392年)などに対して、各一族内の紛争につけ込んで挑発し、挙兵したところを討伐するという手口で守護職を召し上げていきました。特定の守護家が大きな勢力を持たないよう削いでいき、足利将軍家の勢力を相対的に高めていったのです。また、武家を三管(管領家)、四職(侍所頭人家)、国持衆(守護家)、御供衆(番頭家)として序列化していき、将軍を頂点とした階層を確立しました。

その後、1394年(応永元)37歳の義満は将軍職を子の義持(よしもち)に譲り、正一位太政大臣に昇ったのもつかの間、翌年にはその職を辞して出家しました。官位から自由の身となって公家社会・武家社会を超越する存在を志したのでしょう。その御所として、将軍職を象徴する室町第はもはや相応しい場所ではなくなりました。義満は、室町第に4代義持を移す一方で、自身は新たに造営した「北山第(きたやまてい)」に移って、政治の実権を握り続けました。室町第に代わって北山第が、公武の上に君臨する義満の座所となったのです。義満を頂点とする体制を特に「公武合体政権」と呼びます。

公武合体を象徴する北山第の舎利殿

この北山第から引き継がれる建築物が、鹿苑寺(金閣寺)の舎利殿(金閣)です。湖面に浮かぶ舎利殿の圧倒的な存在感には、金箔の貼られたきらびやかな外観も相まって、義満の権力の大きさを否が応でも見せつけられます。

舎利殿正面

舎利殿は、二重三層の楼閣建築です。初層は「法水院(ほうすいいん)」と呼ばれ、阿弥陀三尊が安置されていたそうです。正面には吹き放ちの広縁に簀子縁(すのこえん)を備え、半蔀(はじとみ)の戸を持つ、寝殿造(しんでんづくり)の特徴を有します。西面には、釣殿(つりどの)を彷彿とさせる小亭も付設しています。寝殿造は平安時代から続く、公家の住宅建築の様式でした。

舎利殿初層
吹き放ちの広縁に、簀子縁が付く。
舎利殿西面の小亭
「漱清」と呼ばれる船乗場。

二層目は「潮音堂(ちょうおんどう)」と呼ばれます。板壁を主体とし、正面にはのちの書院造に用いられる舞良戸(まいらど)を備えています。これらは武家の住宅様式の特徴です。公家風の初層と武家風の二層とが融合された点は、義満が成し遂げた公武合体を象徴するかのようです。

舎利殿初層・二層
初層正面は蔀戸をもつ寝殿造。二層正面は舞良戸や格子窓をもつ書院風の武家住宅。初層の土壁に対して二層目は板壁。

三層目は「究竟頂(くっきょうちょう)」と呼ばれ、仏舎利を安置していました。花頭窓(かとうまど)や桟唐戸(さんからど)、逆蓮柱(ぎゃくれんちゅう)の高欄など、禅宗様の特徴を有します。舎利殿の造りは、臨済宗に帰依し出家して法体となった義満(3層目)が、公武(初層と2層目)の上に君臨した図そのものだったのです。

舎利殿三層目
花頭窓や桟唐戸の禅宗様の造り。はっきりと見えないが、扁額は後小松天皇の宸筆による。

舎利殿の前面に広がる池(鏡湖池)は、池泉回遊式の庭園です。作庭には畠山や細川から献上させた石のほか、中国から取り寄せた九山八海石(くせんやかいせき)が用いられています。

鏡湖池
中央の島は葦原島。

この池では、公家風の庭園文化にならい、湖面に舟を浮かべて詩歌会が催されました。一方で、舎利殿初層に阿弥陀三尊が祀られていたように、この池は浄土庭園でもあり、源頼朝や足利尊氏ら武家棟梁の趣向を踏襲していました。さらに、池の片隅には龍門滝(りゅうもんばく)が組まれており、禅的な要素も取り入れられています。この庭園でも、公・武・禅が巧に融合しているのです。

龍門滝
滝に打たれる中央の石は鯉魚石。

さらに、庭園の真ん中には葦原島(あしはらのしま)が築かれていました。一般的な庭園では「蓬莱島」と呼ばれる人工島に、なぜ日本列島を象徴する「葦原島」という名称を付けたのか。日本国を統べる義満の心意気が見て取れます。

葦原島

池の南側にも庭園の遺構が残っておいます。当時は龍門滝あたりまで湖面だったとも想定されており、いまよりももっと広大な庭園でした。

南池跡
当時は、南側にも湖面が広がっていた。

ちなみに、北山第が築かれた場所はもともと西園寺家の別荘が建っていました。1397年(応永4)義満はこの土地を譲り受けて、北山第を造ったのです。鎌倉幕府を後ろ盾に朝廷内で権勢を振るった西園寺家は、室町時代になって衰亡したとはいえ、清華家(最上位である摂関家の次の家格)に列する上級貴族です。そのような貴族の土地に自らの御所を建てるところにも、義満の権勢をうかがい知ることができます。北側の高台にある「安民沢(あんみんたく)」は、西園寺家別荘時代の庭園の遺構です。

安民沢
西園寺家の別荘があった鎌倉時代の庭園跡と見られる。

義満の絶頂期と、義満没後の室町幕府

1408年(応永15)に北山第には後小松天皇が行幸し、蹴鞠や三船の御会を楽しんだようです。よほど楽しかったのか、天皇の滞在は23日間にも及び、天皇と義満との蜜月ぶりを示しました。義満は、絶頂期を迎えたその年、51歳でこの世を去りました。

死後、朝廷より義満に太政天皇の尊号が贈られる話になましたが、息子である4代義持はこれを辞退しました。さらに、義持は、舎利殿などわずかな建物を除いて北山第を解体し、京内の寺院に移築。義満が開始した日明貿易(朝貢貿易)も、明に対して卑屈な姿勢をとる外交だとして停止しました。義持は実の父である義満を毛嫌いしていたのか、父子関係はあまりしっくり来ていなかったようです。

しかし、義持の時代に大きな戦乱も起きず、幕府が安定期を過ごせたのは、義満が築いた公武合体の恩恵が生きていたからでした。義持も、武家社会で有力守護をけん制しつつ、公家社会で儀式を執り行うなど、義満の基本的な方針を引き継いでいきます。

北山第は1422年(応永29)に鹿苑寺に改められ、禅寺として整備されましたが、徐々に衰微し、さらに応仁・文明の乱で荒廃していきます。それはあたかも、義満の絶頂期から室町幕府が衰亡していく様を表しているようでもありました。

基本情報

  • 指定:特別史跡・特別名勝「鹿苑寺庭園」、世界遺産「古都京都の文化財」
  • 住所:京都府京都市北区金閣寺町
  • 施設:金閣寺(外部サイト)