三内丸山遺跡|縄文時代中期の拠点集落。豊かさとその脆さの実態とは?

1万年以上も続く縄文時代に最も繁栄した中期

およそ1万6千年前から3千年前まで続いたとされる縄文時代ですが、1万3千年の間ずっと同じ様子が続いたわけではありません。最も大きく変わったのは気温で、この変化にあわせて縄文人の生活方法は変わっていきました。

前の時代である旧石器時代はとても気温の低い氷期(氷河期の中の比較的寒い時期)でした。この頃の東日本は主に針葉樹林に覆われており、旧石器人の食料資源は動物質のものに限られていました。人々は陸系の動物を追い求めながら移動性の狩猟生活を行いつつ、河川の魚類(主にサケ)も捕るようになり、これを利用するために土器を発明します。1万6千年前頃、縄文時代草創期のことです。

1万5千年前頃からは気温が上昇しはじめ、間氷期(氷河期の中の比較的暖かい時期)に入ります。気温の上昇は、2つの変化を引き起こしました。1つ目は、植生の変化。西日本から北海道の南くらいまで落葉樹の植生が拡大していきます。落葉樹であるブナ類の木の実は食用になりました。2つ目は海面の上昇。海岸線が内陸まで進出したことで、複雑な入り江が形成され、豊かな漁場となりました。

気温の上昇とともに、植物や魚などの食料資源が飛躍的に豊かなになったことで、人々は一か所に定住できるようになりました。定住化が進んだことで、土器の利用が進み、竪穴住居も営まれるようになります。こうした、縄文時代らしい生活スタイルが確立するまでを縄文時代早期、その生活スタイルが列島全域に拡大し定着するまでを縄文時代前期として扱います。

その後、気温はゆるやかに下降を始めますが、むしろ気候は安定化し、縄文人にとって最も住みやすい環境が整っていきます。人口が増加し、集落は拡大、豊かな精神性が育まれ、土器は高い芸術性を持つまでに進化します。縄文時代で最も栄えたとされるのが中期です。一般的に、縄文時代と言ってイメージされるのは、この時期のことでしょう。

縄文時代中期は、単純に集落が大きくなっただけでなく、複数の集落を束ねる拠点となるような巨大な集落が現れます。この拠点集落では、多くの人を収容できる大型の建物が建てられ、遠方で産出された石器が集まりました。日本列島の各地から人と物(おそらく情報も)が集まるような場所だったのです。

縄文中期を代表する拠点集落、三内丸山遺跡

こうした拠点集落を代表する遺跡が三内丸山遺跡です。世界遺産にも登録されたこの遺跡は、およそ5900年前(縄文時代前期後半)から4200年前(縄文時代中期末)までの1700年もの間に営まれ続けました。

最も栄えたのは縄文時代中期の中頃です。この頃、集落の中心部分には大型竪穴建物と大型掘立柱建物が建てられていました。大型竪穴建物は横に広い楕円形をしており、最大のものは長さが32m、面積は270㎡にもなります。なにに使われた施設なのかいまだ定説はありませんが、祭祀や会議などに利用された集会所や、冬季に人々が集って暮らした集合住宅などが想定されています。

大型竪穴建物(復元)
一般的な竪穴住居の20倍の広さ。見学時は外観・内部ともに改修中だった。

大型掘立柱建物は、直径1mもするクリの巨木6本(2×3本)を使った建物で、柱を据えるために直径2m・深さ2mの大きな穴が掘られました。柱の間隔はどれも4.2mで高い規格性が見られるそうですが、屋根や床があったのかどうかは分かっていません。もちろん用途は全く不明ですが、祭祀用建物や物見やぐらではないかと考えられています。これらの大型建物は継続的に建て替えが行われたようなので、集落の人々にとってなくてはならない施設だったのでしょう。

大型掘立柱建物(復元)
複数の案の中から「屋根なし三層」で復元された。床がなくトーテムポールのような案もあり。

この施設の周辺には通常の大きさの竪穴住居や掘立柱建物も建てられていました。これらの建物跡は竪穴や柱穴しか残っていないため、上部構造は不明なことが多いです。三内丸山遺跡では、竪穴住居は、茅、樹皮、土で葺かれた屋根の3種類のものが復元されています。また、掘立柱建物は床に炉跡が見つからなかったため、高床として復元されていました。

竪穴建物(復元)
一般的な竪穴住居。手前から、茅、樹皮、土で葺かれた屋根の建物が復元されている。
掘立柱建物(復元)
高床倉庫として復元されている。食べ物の貯蔵のほか、遺体を安置するための施設とも想定されている。

これら集落の中心部へと繋がる道路跡も見つかりました。幅は最大のところで21mにも及ぶため、集落のメインストリートだと想定されています。集落中心部から東側と南側へ延びる2本の道路は、集落の外へとつながっていました。周辺の集落の人々がこの道路を通って三内丸山集落を訪れたのでしょうか。

集落東部|中心部から東側を向いて撮影
集落の外側へつながる道路跡が発見されている。

このメインストリート沿いには墓域も形成されています。大人の墓と見られる墓壙と子供の墓と見られる土器棺がありました。大人の墓には環状に石を配したものも見られ、「特殊な役割を持った人物」の存在も想定されています。

環状配石墓(復元)
南側に延びるメインストリート沿いに営まれた大人の墓。配石のあるものは稀で、集落内でも限られた特殊な人物が埋葬されたと想定される。

建物や道路の建設工事によって生じた土は、集落内の特定の場所に積み上げられていきました。遺跡内の「盛土遺構」と呼ばれる不思議な遺構がそれです。

南盛土(露出展示)
1000年もの間、継続して盛土され、高さは2mにも及ぶ。土器や石器のほか、土偶やミニチャ土器、装身具なども出土する。単なる廃棄場ではなさそう。

遺構からは土器や石器などの生活用具のほか、土偶やミニチュア土器なども出土することから、単なる廃棄場所ではない特別な空間だったと想定されています。この盛土は1000年にも渡って継続的に行われたようです。

大型板状土偶|縄文時遊館(国重文・縄文時代中期)
三内丸山遺跡で出土する土偶の特徴は板状であること。高さ32.4cmで、三内丸山集落内で最大のもの。頭部は北盛土から出土し、胴部は近くの竪穴建物から出土した。

縄文中期の生活の豊かさとその脆さ

三内丸山遺跡の繁栄ぶりは、遺跡の大きさだけに現れているわけではありません。その出土物もすごいのです。例えば「ヒスイ製大珠」。このヒスイは集落から500kmも離れた新潟県西部の糸魚川で産出されたものであることが分かっています。おそらく海路を渡り、何人かの手を介して、遠路はるばる本州の北端までもたらされました。当時の人々の交流網はいったいどれほどの広さだったのでしょうか。

ヒスイ製大珠|縄文時遊館(国重文・縄文時代中期)
新潟県糸魚川産のヒスイで作られた装飾品。日本海を渡ってもたらされた原石を集落内で加工したものと見られる。

三内丸山遺跡では、中部地域のような装飾性豊かな土器こそ見つかっていませんが、高い工芸技術が育まれていたことは間違いありません。それを示すのが「縄文ポシェット」です。3~5mm幅に加工されたヒノキ樹皮を使い、網代編みで編まれています。現代でも十分通用するほどの精巧な造りになっていました。

縄文ポシェット|縄文時遊館(国重文・縄文時代前期)
ヒノキアスナロ(ヒバ)と想定される樹皮で編まれいている。この編み方は現代の工芸品でも使用されている。

このように、縄文時代中期に繁栄した三内丸山集落でしたが、4200年前頃に起こった冷涼化(4.2kaイベント)により衰退してしまいます。なぜこれほど巨大な集落が廃絶に向かったのかは不明な点も多いようですが、冷涼化により食料資源が減少し、膨れ上がった人口を維持できなくなったためだと考えられています。

マダイの骨|縄文時遊館

縄文時代の遺跡から出土する遺物には山の幸と海の幸のものがあり、「縄文人はグルメだった」と紹介されることがあります。三内丸山集落でも、北側を流れる沖館川を経由して陸奥湾に出て豊富な魚貝を捕っていたとともに、クリについては大きなものや美味なものを選択的に採取して栽培していたことが分かっており、たしかにグルメな食生活の一端を覗くことができます。しかし、これらの食生活は、海か山のどちらかに食料資源を偏らせず、リスクを分散する行為だったとも見られています。縄文時代中期の繁栄はとても脆い土台の上に立っていたのです。

冷涼化が進む縄文時代後期。集落は解体し、人々は分散して小規模な集落を営むようになります。三内丸山集落に住んでいた人々の一部は近くの小牧野集落へ移っていたと見られています。

基本情報

  • 指定:特別史跡「三内丸山遺跡」、世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」
  • 住所:青森県青森市三内丸山
  • 施設:縄文時遊館(外部サイト)