讃岐国分寺|聖武天皇による国分寺の建立

奈良時代を象徴する天皇・聖武は、仏法による鎮護国家のために大仏の造立や唐僧鑑真の招聘など仏教にかかわる国家事業を推進しました。その功績は東大寺や唐招提寺として、都のあった奈良の街にいまも生き続いています。一方で地方においても、聖武天皇によって大きな仏教事業が行われました。それが国分寺の建立です。

国分寺建立の詔

天平6年(734)から天平9年(737)までの4年間は、聖武天皇にとって苦難の連続でした。最初の苦難は大地震です。多くの人が圧死したほか歴代天皇の陵が崩落し、聖武天皇は被災状況の調査や各地の対応に追われました。被災から立ち直ろうとした天平7年(735)は天候の不順によって稲が実らず、九州では疫病が流行して多くの農民が苦しみました。天平8年(736)も不作が続きます。農民たちは疫病に倒れ、農作業どころの状況ではありません。

聖武天皇はたびたび大赦や免税を行って国難を乗り越えようとしましたが、状況は改善せず。自分の不徳に悩んだ天皇は、仏教による鎮護国家に望みを託し、国ごとに釈迦仏の像1体と脇侍菩薩2体を造って大般若経を書写するよう命じました。しかし疫病は収まらず、天平9年(737)にはその猛威は奈良の都をも襲い、多くの貴族が病死してしまいました。

大般若経の効験を諦めた聖武天皇は、代わりに金光明最勝王経に頼ることとし、諸国に経を読誦させ、さらに平城宮大極殿では講説を行うなど功徳を積みます。その努力が報われたのか、疫病は急速に沈静化し、天平10年(738)には平穏な生活を取り戻したようです。

金光明最勝王経の効験を確信した聖武天皇は、この経による鎮護国家の構想を推し進めることにします。天平12年(740)諸国に七重塔の建立を指示し、翌天平13年(741)2月、これまでの施策を総括して改めて各国での寺院建立を公表しました。これが「国分寺建立の詔」です。

出土文字瓦|讃岐国分寺跡資料館
「国分金光明」と記された文字瓦。

この詔では、効験あらたかな金光明最勝王経を天皇自らが書写することを宣言し、これを七重塔に納めるよう指示しています。金光明最勝王経にある「国王がこの経を流布することに努めれば、我ら四天王がその国土を鎮護しよう」という記述にちなみ国分寺の正式名称は「金光明四天王護国寺」とされました。

讃岐国分寺跡

国分寺建立の選地について、人家からほどよく近く清浄な場所を選ぶよう念を入れて指示されています。香川県高松市に残る讃岐國分寺も、このときに創建され現在まで法灯をつなぐ国分寺の1つ。北側を山塊に抱かれ、南側に開かれた場所で、近くには古代官道も通る適地に建立されました。

国分台|讃岐国分寺跡から北側を撮影

現在の仁王門から内側は、当時回廊に囲まれ金堂や塔が建っていたエリアです。全国に創建された国分寺の伽藍配置には複数の種類があります。もっとも多いのは総国分寺とされる東大寺式の伽藍配置で、回廊の外側に塔を配置するもの。一方讃岐国分寺は、回廊の内側に塔を配置する大官大寺式で、奈良時代より前の寺院様式を採用するものです。

仁王門
当時の中門の位置に当たる。左右からは金堂につながる回廊が延びていた。
讃岐国分寺(模型1/10)
手前にある二層の門は南大門で左右から築地塀が延びて寺域を囲む。その後ろにある中門から七重塔を囲むように回廊が巡って金堂につながる。

伽藍の中央でひときわ存在感を放つ巨石が金堂の礎石で、当時の位置から変わらず今に至ると考えられています。ここには正面7間・側面4間の金堂が建っていました。

金堂礎石
正面28m、側面14mと推定される金堂が建っていた。その大きさは唐招提寺の金堂とほぼ同じと言う。

金堂の手前右手には、七重塔の礎石が残ります。石塔(中世のもの)が置かれた中央の巨石が塔の心礎でした。

七重塔礎石
幅10mの正方形。

金堂礎石の奥には、現在の國分寺本堂が建っています。この本堂は創建時の講堂礎石のうえに建てられました。鎌倉時代の再建時に規模を縮小したようですが、位置は当時のままだと考えられています。

讃岐國分寺本堂■重文・鎌倉時代

現國分寺の東面と西面では築地塀の跡が発見され、創建時の国分寺が東西220m・南北240mの寺域をもつことが分かりました。築地塀の一部が復元されていて、寺域の大きさを窺いしることができます。

東面復元築地塀

寺内には鐘楼跡と想定される礎石や大規模な僧房跡が発見されています。特に僧房については、遺構の状態が良く内部構造の推定も可能だったため、半分が覆屋に囲われ推定復元されています。

鐘楼礎石
僧坊礎石|西側を撮影(東側は覆屋の下)

僧房内には、4つの個室をもつ房室が6つあり、個室1つに僧侶1人の計算で最大24人の僧侶がここで暮らしたと想定されています。国分寺建立の詔で指示された一寺あたりの僧侶の数は20人なので、十分な規模です。個室1つは4m四方のため、ビジネスホテルのシングルルーム程度の広さでしょうか。

僧房礎石|東側を撮影
房室(復元)
3間四方の房室に4つの個室が設けられ、それぞれに扉が付属していた。

その他寺域の西側には掘建柱建物の跡が発見されていますが、その役割はよく分かっていません。近くには、中門と金堂をつなぐ回廊の痕跡が発見され、舗装表示がなされています。

掘立柱建物跡
回廊跡|南側から撮影
右に折れた回廊は金堂につながる。左手は復元築地塀。

難航した造寺

高らかに宣言された国分寺建立の詔でしたが、諸国での造寺は思うように進みませんでした。課題は建設のための資金です。詔の以前から、仏像造立の資金として封戸(諸国の税収の一部)を与えてましたが、詔を出した際に封戸50戸と水田10町を追加し、加えて天平16年(744)、正税2万束を農民に貸し与えてそこから上がった利息を造寺にあてることにしました。さらに地方の豪族層に働きかけ、末代まで郡司に就任することを約束した代わりに造寺への協力を求めました。こうして地方豪族の事業参画があったことで、国分寺の伽藍配置や瓦の文様に国ごとの違いが生じました。

そのような中で聖武天皇は自ら発願した国分寺創建事業を最後まで見届けることなく、天平勝宝8歳(756)に死去。この時点でも多くの国分寺が建設途中だったようで、中央からは本尊と金堂の建立を聖武天皇の一周忌までに終えるよう厳命が下り、技術者も派遣されました。

こうした督促のためにようやく完成の目処がたったのか、この年の末には26カ国の国分寺に幡などの仏具が下賜され、翌年の一周忌法会に向けて準備が開始されました。この26カ国の中に讃岐の国分寺も含まれています。詔から15年がたった年でした。

苦しい財政状況の中、仏法による鎮護国家のため建立が進められた国分寺。中世を通して荒廃したものもありましたが、多くは宗派を変えたり規模を縮小しながら現在まで法灯を繋いでいます。廃寺となった国分寺も、土の中にその痕跡をとどめ史跡指定されたり地名として残ったりしています。聖武天皇の国家事業はいまでも地方に息づいているのです。

基本情報

  • 指定:特別史跡「讃岐国分寺跡」
  • 住所:香川県高松市国分寺町
  • 施設:讃岐国分寺跡資料館(外部サイト)