笹山遺跡|縄文土器の最高傑作・火焔型土器が産み出された背景とは。

日本列島では、後期旧石器時代の長い氷期が終わると、人々は温暖な気候に適応した新たな生活形態を生み出し、縄文時代へ入っていきます。1万数千年に及ぶ縄文時代の中で最も栄えたのは、今から5000年程前の縄文時代中期。温暖化が進むとともに人口が増加し、集落の規模も大きくなりました。

繁栄を支えた東日本の落葉広葉樹林と河岸段丘

縄文時代中期の繁栄には日本列島の東西で違いがありました。西日本に比べて東日本の方で人口が多く、集落規模も大きかったのです。その要因には、植生と地形の違いがありました。

南北に長い列島では西日本と東日本で気温の差があり、西日本では照葉樹林が、東日本で落葉広葉樹が広がるという植生の違いがありました。落葉広葉樹帯の東日本では、食糧となる木の実や林床植物が豊富でした。また、東日本では長く緩やかな川が多く、河岸段丘が発達しやすい傾向がありました。

河岸段丘とは、土地の隆起と川の浸食によって形成された段丘のこと。緩やかな川は、長い年月をかけて蛇行を繰り返し流域に土砂を堆積させて谷底平野を形成しています。そこに地震などの影響で土地が隆起すると、もともと谷底平野だったところが一段高い台地となるとともに、傾斜の強くなった川が川底を侵食しはじめて一段深く流れるようになります。そうすると、深くなった川底でも流れが緩やかになるまで流域を侵食しながら蛇行し、再び土砂を堆積して谷底平野を形成していきます。こういうことが同じ場所で繰り返されると、何段もの河岸段丘が発達するのです。

河岸段丘|マウンテンパーク津南(川の展望台)から撮影
中津川が信濃川に合流する地点では9段にも及ぶ国内有数の河岸段丘が見られる。約20万年前から形成され、上の段丘面ほど古い。樹木が生える濃緑色の部分が段丘崖。

河岸段丘では、平らな部分を「段丘面(だんきゅうめん)」、川によって削られた部分を「段丘崖(だんきゅうがい)」と呼びます。段丘崖では湧水が出やすく、縄文時代の人々はこの湧水を求めて段丘面に集落を形成しました。山にも川にも近くて豊富な食糧源に恵まれているだけでなく、川から一段高いため洪水の心配もないなど、縄文時代の人々にとって河岸段丘という地形はまさに理想の居住地でした。縄文時代中期に東日本が繁栄した背景には、このような植生と地形の特徴があったのです。

信濃川の河岸段丘と笹山遺跡

日本一の長さをもつ信濃川では、この河岸段丘が発達しています。特に津南町や十日町市では何段もの段丘が形成されており、縄文時代の遺跡が多く見られます。そのうちの1つが縄文時代中期の集落跡である笹山遺跡です。

信濃川|笹山遺跡から撮影
集落と信濃川の間には、いくつもの段丘面が見える。

笹山遺跡では、集落の中央に広場があり、広場の周辺に竪穴住居や土坑などを配置した直径130mくらいの環状集落でした。環状集落は、縄文時代中期の大規模な集落でよく見られる集落形態です。直径20mの広場を中心に、直径70~150mの範囲で環状に墓地や住居を配置するのが一般的です。弥生時代後期の環濠集落などに比べると小さく感じますが、直径130mでも縄文時代では最大級の集落です。

笹山遺跡|東側を撮影
集落の東側にはすぐ近くまで山林が迫っている。現在は針葉樹林だが、縄文時代中期は広葉樹林が広がっていただろう。

笹山遺跡では14基の住居跡が発見されています。竪穴住居では、直径5~6m・深さ50cmほどの竪穴に柱を立てて屋根をかけていたようです。竪穴の中央には石囲いの炉がありました。

竪穴住居(復元)
竪穴住居内部(復元)

現在はこのうち2基が復元されています。1基あたりには親と子からなる一家族が居住したと想定されていて、縄文時代中期の小規模集落では一親族による複数家族が居住し、大規模な環状集落では複数の親族が同時に生活を営んだようです。

複数親族の団結を維持するためにはときには祭祀も必要だったのでしょう。食糧の豊穣や子孫の繁栄を祈る儀式に使われたのか、石棒や土偶のほか、様々な土製品も出土しています。

生活の豊かさが産み出した火焔型土器

食糧に恵まれた生活や大規模な集落での集団生活は、そこに暮らす人々に豊かな精神性をもたらしたのでしょうか。この精神性は、縄文土器の最高傑作ともいえる「火焔型土器」を産み出すことになります。鶏冠のような把手や鋸歯のような口縁部が、燃え上がる炎のように見えることからこの名前が付きました。胴部にも力強い装飾が施され、「美術品」と言っても過言ではないほど非常に芸術性の高い作品です。

笹山遺跡出土火焔型土器(指定番号1)■国宝・縄文時代|十日町市博物館
「縄文雪炎(じょうもんゆきほむら)」の愛称で知られる最も有名な縄文土器。

余談ですが、同じ新潟県の馬高遺跡(長岡市)で最初に発見された土器を「火焔土器」と呼んだことから、のちに発見された同じような形の土器を「火焔型土器」と呼び、「型」を付けて区別するようになったようです。一般的にイメージされる「縄文土器」はこの火焔型の土器ですが、新潟県内とその周辺でしか出土しない特殊な土器で、縄文も施されていないため、「縄文土器」と呼んでいいのか悩むところでもあります。

笹山遺跡では深鉢だけでなく浅鉢もあれば、火焔型だけではなく王冠型のような装飾もあり、1つの集落だけでも多様な土器が産み出されました。

内部には焦げの痕が見られるため、煮炊きに使用したのは間違いないようですが、わざわざ装飾にこだわった土器を使う理由はなんだったのでしょうか。祭祀などの特別な儀式で使用したのではないかという考えもありますが、いまだ解明されていません。重量は7kg程度と、日常生活で使うにはかなり重たく感じます。十日町市博物館には現物と同じ重さのレプリカが展示されているので、ぜひ持ち上げてみてください。

火焔型土器は、最も繁栄した縄文時代中期に、しかも生活に適した河岸段丘上の大規模集落だったからこそ産み出されました。狩猟採集の時代とはいえ、縄文時代の人々が豊かな精神性・芸術性を持っていたことを示しています。しかし、暖かく食糧の豊かな縄文時代中期から一転、再び冷涼化が起こり食料資源が乏しくなったことで大規模な環状集落は消滅していきます。縄文人たちは離散して集落の規模を縮小していくのです。装飾性の高い土器や土偶を産み出した時期は終わり、縄文時代は後期へと移り変わっていきます。

基本情報

  • 指定:十日町市「笹山遺跡」
  • 住所:新潟県十日町市中条
  • 施設:十日町市博物館(外部サイト)